ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」抄訳(44)DELLぺーパーバックP557~ 559(終了)
ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」抄訳(44)DELLぺーパーバックP557~
559(終了)
(ここから終了まで、この物語の語り手であり、主人公アーサーの兄であるホールがみた夢の話である)
ジミーと姉のジュリア、アーサーと私がカントリー・ポーチに立っていた。強い雨が降っていたが、私たちは濡れることはなかった。雨は私たちの視界を遮り、だれも私たちを見ることはできなかった。それまではみんな部屋にいて、おしゃべりをしたり、トランプをしたり、ピアノを弾いたりしていたときに、だれかが呼んだのだ。〈さあ、子どもたち、来てごらん、あそこを見てごらん〉。
詩を書いていたジュリアは、腰の重そうなベルト――それをどこで手に入れたのか私は知っていたが、彼女に話しかける時間はなかった――ジミーは大きな、まがまがしい金の鋏でアーサーの髪を切っていた。アーサーは床に落ちる自分の髪を拾っては、いろいろな形に編んでジミーに渡していた。私は材木を切って、その夜の焚火の準備をしていたようだ。みんなが一斉にポーチに走った。声の主は父のポールのように感じたが、妻のルースかもしれなかった。私のちょっと後ろにいて、私の肘を支えているか母のフロレンスに話しかけているルースも夢の中にいた。
フロレンスは土砂降りの雨の中、カントリー・ポーチの前の道路に立っていた。彼女は、私がいつかのクリスマスにプレゼントした真珠貝の櫛を髪に挿していて、それが雨に濡れて稲妻のように光り、あるいは出エジプト記の雲の柱ように見えた。エイミーはマルタを支えるフロレンスを助け、そのエイミーの後ろでは、シドニーとジョエルが互いに助け合いながら、雨のために先の見えない坂道を上ってゆく。
私はトニーを肩車し、彼は私の髪をつかんでる。オデッサは私の膝につかまっている。
ルースは私の背中をなでている。
アーサーが私の隣に立って言う。
「道がどうなっているか、みんなに教えてやろうか」
雨が激流のようになった道路から、フロレンスが怒って注意を呼びかける。おほー
っ、おほーっ。
ポールの胸に、魔法の銀のロケットが雨に濡れて光っている。アーサーが私にプレゼントでくれたやつだ。おほーっ、おほーっ。
私はアーサーのほうを見て言う。
「行くよ」
雨はやむ気配がない。おほーっ、おほーっ。
「中へ入ろう」とジミーが言う。
おほーっ、おほーっ。
そのとき、みんなが笑う。焚火が燃えている。子どもたちに食事をさせて寝かしつける。私たちはカントリー・ポーチにいるが、雨でずぶ濡れだ。焚火のおかげで服はしだいに乾いてゆくが、乾くまでの時間が雨の強さを教えてくれる。
アーサーがもう一度言う。
「道がどうなっているか、みんなに教えてやろうか」
その問いかけが私を悩ます。聞いたことがあるのに、夢の中でどうしても思い出せないアーサーの歌のようだ。
まばゆい鋏でアーサーの髪を整えているジミーが言う。セネガル風の編み込み髪が雨林のようだ。
「雨のことなんか、放っておけばいいさ」
アーサーは相変わらず自分の髪を集めて、ジミーにプレゼントするペストのようなものを編んでいる。
「おほーっ、おほーっ」とジュリアが言う。
太陽よ早く沈んでおくれ
あしたはどんな日になるだろう
アーサーがこの歌を歌うのを初めて聞いた。彼はこちらを向いて私を見つめた。
太陽が沈んだ
あしたは雨だろう
そのとき、夢の中で、大好きなアーサーの歌が聞こえた。〈ああ、きょうだいよ、世界が炎に包まれるとき主の御胸に抱かれたくはないか〉。夢の中で私は答えた。いいや、道がどうなっていようと構うもんか、みんな自分で見つけるだろうさ。そこで目が覚めた。枕が涙で濡れていた。
(了)
ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」あらすじ(43)
ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」あらすじ(43)
アーサーとはジミーは、同性の愛人であると同時にゴスペルシンガーピアニストとして、14年間一緒に暮らした。アーサーが麻薬に手を出したことで、パリでけんかになった。アーサーは単身ロンドンに渡り、クラブで弾き語りをしていた。ジミーはアーサーの後を追ってロンドンへ行き、彼をニューヨークに連れて帰るつもりだったが、アーサーの死により、その願いは果たされなかった。アーサーの謎めいた死の場面から始まったこの物語は、最期にその死因が明らかになる。
その夜、アーサーはピカデリーにある彼のホテルの近くのバーのカウンターで飲んでいたのだが、急に胸が苦しくなり、勘定をすませて店を出ようと思った。震える手で5ポンド札を出し、釣り銭を受け取って地下のトイレに向かった。階段を下りていくと、突然階段がせり上がってきて彼の胸を押し潰すような感覚にとらわれ、仰向けに倒れた。
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ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」抄訳(43)DELLぺーパーバックP542~
(終了まで17ぺージ)
救い主を高くかかげよ
だれからも見えるように
主を信ぜよ
私が地上から上げられるとき
私はすべての人を私のもとに引き寄せる
とおっしゃった主の言葉を疑うことなかれ
ハーレムで最大の教会で歌う「高くかかげよ」の練習が終わったのは、夜の7時半か8時だった。ジミーは大きく手を上げ、あくびをしながらバスルームに入った。アーサーも背伸びをし、時計を見て少し驚いた。彼は昼過ぎからずっと立ち続けで歌っていたのだ。窓から人のいない通りをながめ、煙草に火をつけて倒れるようにソファに仰向けになった。
ジミーがビールとウイスキーを持って戻ってきた。彼はウイスキーをアーサーに渡し、床にすわると後頭部をアーサーの膝に当てた。
彼はアーサーの吸っていた煙草をとり、自分の煙草に火をつけてからアーサーに返した。
「調子はどう?」
「動いているような気がする。ときどきそんな感じがして、よくわからないけど――どこだかわかっている」
ジミーは煙草の煙吸い込んだ。「そうだね、僕もときどきそう思う」
アーサーは起き上がって前かがみになり、飲み物を両手で持って言った。
「心配しているわけじゃないけど、考えているんだ。ちょっと怖い気もする。だけど、以前から求めていたことなんだな」
「君が考えているのは」とジミーは言った。「ゴスペルだけじゃなく、ほかの歌――ブルースやバラードやほかの歌も歌うということ?」
少し間をおいてアーサーは言った。「それをずっと考えていたんだ。ファンもそれを求めているし」
「冗談じゃないよ――僕はファンと違うからね」
「やっぱりそうか。ゴスペルは僕のふるさとだからね」
アーサーは口ごもって言いわけのように言った。
「おいおい頼むよ。君はとっくにふるさとを離れてジプシーのようになっているじゃないか。おかげで僕も楽しき我が家を離れるはめになった」彼はアーサーのほうを振り返って笑いながら言った。
アーサーはウイスキーをすすりながらジミーを見下ろして言った。
「なんじら病める二匹の猫よ。二匹の黒猫よ。僕たちはファルス(ペニス)のような野蛮人であることを求められている。“What Did You in Her”(彼女のどこがよかったのか)を歌おうじゃないか」
二人ははじけるように笑い、ジミーは話を続けた。
「ねえ、僕は見世物に戻って見世物市場で人気を得ようっていうんじゃないよ。あんな見世物市場、動物園みたいなところで得意になっていたけど、もどっちゃいけないよ。ちょっとでいいから僕を信じてくれないか」
彼はアーサーの膝に頬をこすりつけ、背筋を伸ばし、ビールをすすった。
「だけど、僕たちは〈あなたに夢中〉を歌いながら抜けられたじゃないか。君はあれを僕に歌ったんじゃない――ネルソン・エディとジャネット・マクドナルドが歌う歯磨きのコマーシャルじゃないんだぜ――二人はまたはじけるように笑った――〈バーで告白〉を思い出すよ。君はあそこにいるみんなにうたうことになるだろう。ちょっと聞いてくれないか」
彼は立ち上がってピアノに向かった。〈主のおそばを歩む〉の導入部のコードが響き渡った。ソファにすわっているアーサーには、一瞬、ジミーの意図がわからなかった。次にメロディが流れ、彼はすべてを了解した。はじめはハミングで、それから〈あなたに夢中〉のエンデイングを歌った。
光はもう見えないんじゃないかと思う
夜ごとに聴くブルースが私の気持ちにぴったり
ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」あらすじ(42)
ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」あらすじ(42)
ジミーとアーサーは18番街のデイストリートの3階か4階の屋根裏部屋に一緒に住んで、練習に励んでいた。下の階は中小企業が入っていたが、縮小したり倒産したりで、出入りがはげしかった。一階は工場で昼間は機械の音がうるさかった。5時か6時を過ぎると工場の操業は終わり、近所に家も少ないことから、アーサーの練習には理想的な環境であった。
ああ、世界は飢えている
生活の糧をもとめて
静かな冬の日の土曜の午後、アーサーは窓際で歌いながら外の軽食堂をながめていた。入口のところに二人のアル中浮浪者がいた。二人とも白人で、ウイスキーのボトルを回し飲みしている。一人は擦り切れた上着、一人は破れた黒いレインコートを着ていて、防寒に役立つようなものは身に着けていなかったが、寒さを気にしているようすもなかった。アーサーの目から見る限り、貧しさは人種の壁を超えない。白人は白人同士で放浪し、黒人は黒人同士で放浪するのだ。
アーサーにとって、ジミーはかけがえのない伴奏者であり、ジミーにとってもアーサーはかけがえのない歌手であった。ダンサーを例にとってみると、ソロで卓越した技能を発揮するダンサーもいれば、共演者を選ばぬダンサーもいる。また天地創造のときから定められたような相手を得て、ソロでは達成できないような世界を表現するダンサーもいる。
アーサーとジミーはまさにそれだった。このころ彼らが練習していた曲がある。
このことを世界に告げよう
私は祝福されていることを国中に告げよう
みんなに告げよう
主のなされたことを
みんなに告げよう
聖霊がやってきて
主は喜びを、喜びを、喜びを
私の心にもたらされたことを
(ネットより: 沼崎敦子訳)
ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」抄訳(42)DELLぺーパーバックP535~ (終了まで24ぺージ)
ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」抄訳(42)DELLぺーパーバックP535~
(終了まで24ぺージ)
そのころ、私はとても幸せだった。ルースがいたからだけでなく、ジュリアが戻ってきてくれたからだ。この二つの事実は互いに関連していた。もしジュリアが戻ってこなかったら、ルースがいたとしても、ほかのだれかがいたとしても、私は自由になれなかったろう。そして、なぜ私が自由でないか知ることもなかったろうし、ルースとジュリアを結びつけることもなかったろう。雲が切れてはじめて雲の厚さがわかり、放浪の旅の長さがわかるのだ。それがジュリアとの再会だった。私には責任があり、約束があり、個人としてのプライド(もしくはプライドとしての個人)、そして比較的強い意志があった。これらは決してつまらない関係ではないが、私はできること、できないことはわきまえている。それらは甲冑を身につけることを助け、教えるが、脱ぐことは教えないのだ。何かを渇望し、何かが焼け、ついには何かが臭いを発散しはじめる。そして、自分の臭いが自分でどうしようもなくなると、生きることが惰性となり、逃避となるのである。私にはアーサーという弟がいるが、もう立派なおとなだ――弟であり、私の被後見人というわけではない――そして、私が彼のコンサートの切符を買えないときに都合してくれるというわけでもない。彼が私の後見人というわけでもないのだから。
というわけで、その年の冬は私は32歳を過ぎ、33歳になろうとしていたが、ウエストエンドの私のアパートは、遠くからトランペットのかなでる音が聞こえてくるような、楽しき我が家だった思い出がある。
ジュリアは多忙で、家を留守にすることが多かった。そして、彼女自身も驚いたかもしれないが、家を空けていることがさらに彼女の価値を高めたのである。彼女は当時のアフリカ・ブームの波に乗ったのだった。アフリカに二年いたことが彼女の強みとなり、ジミーによれば、ブロードウェイ、ハリウッド、テレビのプロデューサーが電話をかけてきて、実際ジュリアが脚本のいくつかに目を通したことがある。その結果、これもジミーの言葉だが「モデルの仕事を断りたいと思うようになった」。ジュリアのようすはある程度のことは――非常に重要なことまで――ジミーをとおして知ることができた。ジュリアはジミーにとって、残った唯一の家族だったし、ジミーは私を信頼していた。私は彼が私の弟アーサーを愛していることを知っていたし、彼は私が彼の姉ジュリーを愛していることを知っていたからだ。
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ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」あらすじ(41)
ホールはジュリアに「君がなぜ西アフリカ、コートジボワールのアビジャンに行ったのか、理解に苦しむ」と言ったが、ジュリアをアフリカに誘った黒人男性がいた。その男は教会学校の出身で、妻と二人の子どもがおり、ジュリアの父親ぐらいの年齢だった。ジュリアに言わせれば、彼は肌が黒いというだけでなく、それまで彼女が出会ったことのないような「真の黒人」だった。「一緒にアフリカに行ってくれ」と誘われたとき、最初は断ったが「アメリカにこだわる理由は?」ときかれて考えた。「こだわる理由はあなただったのね」と言って、彼女は手を伸ばしてホールの手の上に乗せ、ほほえんだ。ホールはジュリアが彼の一部であり、だからこそ永遠に解き明かすことのできぬ謎であることを悟った。ジュリアの話は続く。「彼は私のことを不毛だと言ったわ。出産はさまざまな形で訪れる。後悔は流産のようなものだ。悲しみは喜びに至る唯一の鍵だともね。私は、過去を振り返らず前向きに生きることを教わったの」
二人は6時に店を出た。ホールはジュリアをタクシーに乗せて別れたが、彼には将来の妻ルースと7時半に会う約束があった。
ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」抄訳(41)DELLぺーパーバックP524~ (終了まで35ぺージ)
ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」抄訳(41)DELLぺーパーバックP524~
(終了まで35ぺージ)
(カーネギーホール正面の階段で待ち合わせたジュリアとホールは二年ぶりの再会を果たし、近くのロシア料理の店に入った)
「私はアビジャンというまちにいたの。現地の人はシティと呼んでいたわ。アフリカの西海岸にあるけど、アフリカの中のまちというよりは、アビジャンの中にアフリカがあって、まち全体が暴走しそうだった」彼女は私の顔を見て笑いながら言った。「まったく私も頭がおかしくなりそうだった」
「どうもよくわからないな」私言葉を選んで言った。「そんなところで何をしていたのか――なぜ、そんなところへ行ったのか」
彼女は視線を落とし、私の煙草を一本抜き取って火をつけた。「あなたに問うことができないことをアフリカに問いかけた――と言うとかっこつけ過ぎかもしれないけれど、正直なところなのね」彼女は再び視線を落として言った。「あなたは過去の人じゃないから」
「認めるよ。だけど、君は僕を捨てて行ったんじゃないか」彼女はまっすぐに私を見た。「あのころの事情をいろいろ考えてみると、君は僕を失うことはできないよ」
「真実を語るのは難しいわ。一つにはあなたはそれを知らない。それにあなたは怖れている」
「君がそれを知ることを怖れている――?」
なぜそんなことを言ったのかかわない。彼女の顔を見ていたら、言葉が口をついて出た。たぶん私は自分の心を読んでいたのだ。
ウエイトレスがブラディ・マリーを二つ持ってきた。私たちは食事を頼んだ。
ジュリアがグラスを上げ、私もグラスを上げ、互いに会釈をした。
「ブラディ・マリーの名の由来を知ってる?」と彼女が尋ねた。「ブラディ・バージニア、ブラディ・ジュリアじゃなくて」二人で笑った。
そのロシア料理の店はちょうど客が少なくてよかったが、そうでなかったら、大声で笑う二人は追い出されていたかもしれない。
「さあ、知らないなあ。どうでもいいよ」
「ということは、知ってるのね」彼女はブラディ・マリーをなめるように飲んだ。「私がティムブクで勉強したのもそのことなの」彼女は煙草を口から離した。「今までだれもアフリカを発見しなかったのはそのせいだわ
彼女は新しい煙草をケースから取り出した。とても若く、疲れているように見えた。私はライターで彼女の煙草に火をつけた。周囲がわずかに明るくなった。彼女は吸うために煙草を口にくわえたのではないと思ったが、煙を吸い込み、私の頭の上に静かに吐き出した。
永遠に無情に結ばれているのに、決して私のもとにとどまろうとしない美しい女性をながめるのは驚くべきことだ。石にも鋼にも屈しない傷つきやすさがあると思い知らされるのは衝撃的なことだ。