友への手紙~高野吉野紀行~

 先日は大変お世話になり、ありがとうございました。おかげさまで、時間的な余裕もでき、のんびりと楽しい旅ができました。
 西大寺から橿原神宮で乗り換え、吉野まで一時間半ほどでした。そこからケーブルでのぼると黒門というのがあって、さらに後醍醐天皇陵のある如意輪寺まで、いったん谷をおりて山の中腹まで登るので、だいぶ歩きました。そこの資料館には、楠正行が死を覚悟して四条綴に出陣する際に辞世の歌を矢じりで彫りつけた扉が残されていて、六百年前のものですが、みごとな筆跡に感心しました。
 途中にある蔵王堂は、後醍醐天皇の第三皇子である大塔宮護良親王が北条氏の軍勢と戦ったところで、そのとき従臣の村上義光が身代わりになって討ち死にしたことが案内板に書いてありましたが、そういえば太平記にそんな記述があったことを思い出しました。帰ってから岩波の「太平記」を調べてみると、第七巻の巻頭「吉野城軍事」に出ていました。
 この大塔宮という皇子は北条氏を倒すために大活躍するのですが、のちに足利尊氏と対立し、父の天皇との間にも誤解を生じ、足利直義の手に捕らえられて鎌倉の土牢に幽閉され、中先代の乱のときに殺害されてしまいます。僕は小学校の遠足のとき、鎌倉でその小さな土牢を見て、強烈な印象を受けたことを覚えています。
 吉野から吉野口までもどり、和歌山線に乗り換えると、三十五分で橋本に着きます。そこから南海電鉄で、高野山へ上がるケーブルの下の極楽橋という駅まで五十分ほどです。実は和歌山線の車中で、吉野で買った土産物を吉野口駅の待合所に忘れたことに気づき、橋本駅吉野口駅に連絡してもらい、橋本駅に届けてもらうよう頼んだりしていたので時間がかかり、高野山の西室院という宿坊に着いたときは、とっぷりと日が暮れておりました。接待係の若い修行僧たちもジャージに着がえていたので、何やら野球部の合宿にまぎれ込んだような心持ちでした。
 その日は夕食もそこそこに休むことにしました。というのは、翌日は日曜だし、観光客で混雑しないうちに高野山の写真をとろうと思っていたからです。翌朝は朝六時に起きて、ひとりで写真をとりながら弘法大師廟のある奥の院まで歩きました。「一の橋」というところから奥の院までは広大な墓地になっていて、伊達、島津、前田、浅野、武田といった巨大な墓石のあいだを人気のない早朝に歩いていると、さすがに何となく薄気味悪くなってくるくらいでした。織田信長の墓などは、わかりにくい場所に小さいのがあって、たぶん尾張のほうに立派なのがあるのかもしれませんが、あまりのみすぼらしさに英雄の死というものを考えさせられます。
 残念なことに、このときとった写真は、早朝の森の中だったので、ほとんどが露出不足で失敗でした。難しいものです。
 一度宿坊にもどり、朝食をすませてから三人で奥の院に行き、金剛峯寺、大門などの史跡を見学して昼過ぎに高野山を下り、難波へ出ました。予約してあった帰りの新幹線の時間まで二時間くらいあったので、できれば大阪城もついでにと欲張ったことを考えたのですが、何しろ十五年ぶりの大阪なので方向がわからず、大きな荷物をかかえて心斎橋を行ったり来たりして、お好み焼きを食べて帰ってきました。
 早朝の高野山の写真は失敗でしたが、お宅でとった写真はうまくとれました。キャビネに引き伸ばしておきましたから、マランツのチューナーの上かピアノの上に置いていただけると幸いです。
 東京方面においでの節は、ぜひ私のところにもお寄りください。そんなことを言っているうちに、子どもたちも高校生、大学生になってしまうでしょう。修学旅行や受験の際でも、お役に立てることがあったらご連絡ください。
 それではお元気で――。

 十一月二日