甲申政変(朝鮮1988年)の中心人物 金玉均

金玉均の死体に凌遅の刑が加えられた揚花津というところが広大な墓地になっていることを知って、なるほどそうだろうなあと思った。凌遅の刑とは、四肢、頭部を切断し、放置して衆目に晒す極刑である。「大逆無道」の旗を立てて、三叉に組んだ棒に吊るされた金玉均の頭部の写真をウイキペディアでも見ることができるが、背筋の寒くなるような陰惨な光景である。こんなことがあった場所が住宅街になるわけがない。このような残酷な刑罰を廃止することも、金玉均がめざした朝鮮の開化・近代化に含まれるだろう。
 上海で洪鐘宇に暗殺されたとき、彼はまだ43歳で、甲午農民戦争日清戦争と大きな国難がふりかかる直前であった。
 東洋文庫「朝鮮開化派選集」の解説によれば、金玉均李鴻章に会うために上海へ渡った。金玉均にこれを提案したのは、ほかならぬ洪鐘宇であり、上海まで金玉均に同行したのも彼である。
 洪鐘宇は、次のように金玉均に近づき、説得した。
 「自分は、甲申政変に参加して死んだ洪英植の親戚の者である。日本の力をかり、権力をもつ高位の官員を滅ぼし、開化を促進し、甲申政変の目的を達したい。日本人は外見には親しいが、内面では疎んじている。遠からず我らを逮捕し朝鮮に送還するだろう。資金はあるから、上海に行き、清国の著名人と結んで反日の気運を醸し、然る後に露国へ向かおう。君の才能をもってすれば、必ず前進の道が開けるだろう」(「金玉均謀殺並ニ凶行者洪鐘宇ニ関スル件」)
 金玉均に関心をもたぬ人は、このような甘言に乗って上海へ殺されに行くとは、「愚かな」の一言で片付けてしまうかもしれないが、彼にシンパシーを抱く私としては、日本に亡命中であった彼の境遇を調べてみたい気がする。
 上に掲げた「朝鮮開化派選集」の年表を見ても、居住地は五年間に東京-小笠原父島-母島-札幌と転々とし、その後一年余の間に二度上京というように、大変あわただしく、また不遇であった印象を受ける。この時期の金玉均の行動を知るには、琴秉洞「金玉均と日本 その滞日の軌跡」が好適である。
 仁川から日本公使竹添進一郎らと脱出した金玉均は、三田の福沢諭吉のもとに身を寄せる。「朝鮮開化派選集」の解説でも二人の交流に多くのページをさいているが、福沢が金に与えた影響は深く、福沢の言説は甲申政変の思想的背景と言っても過言ではない。彼が時事新報社説において、「亞細亞東方の悪友を謝絶するものなり」と脱亞論を展開したのは1885年3月16日のことで、甲申政変後わずか3カ月である。脱亞論の行間に福沢の挫折感を読み取るべきである。
 金玉均が福沢のもとを去ったのは、「金玉均と日本 その滞日の軌跡」の年表では、3月前後とされている。2月に朝鮮から徐相雨、モルレンドルフが国使として来日した際に、金玉均の身柄引渡しが問題となったためである。日本政府は「日本には来ていない」と回答したので、危難は回避できたように見えるが、ただ一度の交渉で解決するはずもなく、また、朝鮮国王の命を帯びた暗殺者が派遣されるのは必至であり、福沢に迷惑がかかることを慮っての退去であろう。
 その後、金玉均は、浅草本願寺、本郷真浄寺に短期寄留の後、横浜山手のグランドホテルに居を定める。三田を離れた彼は、あたかも行動の自由を獲得したごとく、さまざまな地方を旅行し、さまざまな人物と会う。この時期のことを福岡日日新聞は「金玉均氏は、目下、奈良地方遊覧なり」と書いている。これが文字どおりの遊覧ならば問題ないが、行く先々でいろいろな人物が訪ねてくる。朝鮮近代化の挙兵に失敗して亡命中と知って訪ねてくるのだから、話題は当然そのことに限られてくる。いつの間にか、日本で軍隊を編成し、朝鮮に戻り、志を果たす金玉均像ができあがってしまった。日本政府としては、朝鮮政策に影を落とすような人物は排除しようとするのは当然である。「金玉均と日本 その滞日の軌跡」は金玉均へのシンパシーが貫かれた大著であるが、著者の琴秉洞でさえ、「金玉均のこの時期の言動は、いささか慎重を欠くきらいがあったといえよう。」と書かざるをえなかった。
 1885年6月11日、ついに金玉均に国外退去命令が下る。そして、グランドホテルからいったん同じ横浜の三井別荘共衆荘に移されたあと、横浜港から小笠原島に向かった。
 小笠原には、1886年8月から1888年7月まで、2年滞在した。北海道へ移されるのは、金玉均の嘆願書を内務大臣山県有朋が読んだからである。嘆願書の中で、金は「猛暑多湿のため、リウマチが悪化し、さらに胃弱、頭痛などで毎日苦しんでいる」と訴えている。これに対し、山県は外務大臣大隈重信宛の書簡で、「その情憫諒すべきものなり」とし、内地は外交政略上問題があるが、金玉均の生地朝鮮国と寒冷気候が同じ北海道ならばと書いている。札幌を提案したのは大隈である。
 こうして、金玉均は、1888年7月末に小笠原を発ち、横浜に寄港した後、8月1日に函館港に着いた。札幌での住居は円山村育種場内の官舎であった。
 第1回の上京は、1889年9月から11月まで。第2回の上京は、1890年4月に東京に着き、そのまま北海道には帰らなかった。2回ともリウマチ、眼病の治療が目的で、1回目は高木兼寛軍医総監の診察治療、2回目は駿河佐々木病院で診察治療を受けている。北海道に帰らなかったのは、「内地及ヒ外交上ノ煩累ヲ惹起ストノ虞」がなくなったと、内務大臣西郷従道外務大臣青木周蔵から内地自由居住の許可が出たからである。

さて、私が金玉均にシンパシーを抱いたのは、彼の妻子の運命を含めてのことであった。高宗時代の朝鮮には憲法はまだなかったが、大逆罪は三親等までの連座制とされていた。金玉均の母は自殺、父は死刑に処せられている。当然、妻と娘まで累が及ぶわけである。
 ウイキべディアに、「金玉均謀殺並ニ凶行者洪鐘宇ニ関スル件」を踏まえて、次のような記述がある。

 金玉均の妻子については処刑されたとも逃亡したとも噂され行方不明であったが、日本は探偵を送ってその捜索を始めた。1894年12月、当時東学党の乱(甲午農民戦争)を鎮圧中の日本軍が忠清道沃川近傍で金玉均の妻と女子を偶然発見して保護した。その時の2人は実に憐れむべき姿だったという。

 金玉均が日本に亡命した後、どのような運命が彼の妻子を待っていたのだろうか。 「金玉均と日本 その滞日の軌跡」は、大変に行き届いた労作で、付録として『金玉均妻女■氏の「遭難自記」』という一章を設けている。
 それによると、政変の二日後に七歳の女児を背負って家を出た。追っ手を逃れながら、自身の生家や夫の実家を転々としていたが、一カ月後に先祖の墓のある忠清道沃川にたどりつき、知人の家に潜んでいたところを逮捕された。
「久しく獄中に辛苦を嘗めるうち、」(この期間は不詳)金玉均の実父につかえていた男の尽力で救出され、その男のもとに身を寄せることになった。
 別に家を建ててもらって、四年は平穏に過ごしたが、この男が官金横領の罪で家屋を没収され、再び母子は路頭に迷うことになった。
 あばら屋に住みながら賃仕事で露命をつないでいたが、壬申の11月(甲申政変から八年後)、母子は疫病にかかってしまった。仕事もできず、治療も受けられず、ただ死をまつような状態で過ごすこと四カ月、翌年二月にようやく病は癒えた。この間の生活を彼女は「人生、斯くまで浅ましからんとは」と書いている。こうした生活の中で、彼女は夫の死、その遺体に凌遅の刑が加えられたことを知る。「仰いて天を見ること能はず、俯して地を察ること能はず。
身を殺して此の苦痛を逃れや」と娘とともに生きる道を選ぶのだった。
 その後、国王から恩赦が出るが、一難去ってまた一難、東学党の乱(甲午農民戦争)のため、「殆ど必死の境に沈みし折柄」、金玉均の書生であった李允杲が通訳として日本軍に従軍しており、彼によって救出された。
 十年ぶりに京城に戻った妻子は、甲申政変の金玉均の盟友であり、共に日本に亡命した朴泳孝(当時帰国して金陵尉大監の地位にあった)の庇護のもと、平穏な平穏暮らしを取り戻すことができた。 
 「嗚呼痛ましや恨めしや、仇を洪鐘宇に報じて海外万里の天に漂泊(さまよ)ひまします亡夫の冤魂を慰めたてまつらんこと、実に吾身の第一願なり。野辺に棄てられ、祀られざるの鬼となり給へる父母兄弟の白骨を収めて先塋の下に礼葬したてまつらんこと、実に吾身の第一願なり。」
 「遭難自記」終段の悲痛な叫びを、日本各地を転々とする間に、少なくとも四人の女性を愛人にした金玉均の魂は何と聞くのであろうか。
 金玉均の墓は青山霊園にある。裏面の墓誌には冒頭以下のように刻まれている。

 嗚呼抱非常之才、遭非常之時、無非常之功、有非常之死、
 (ああ、非常の才を抱き、非常の時に遭い、非常の功無く、非常の死有り、)

                                 (了)