追悼 石渡幹夫【Ⅱ】エデンの東

  私の辞書に載っていない英単語の意味を調べに浦和の県立図書館へ行ったとき、ふと書架の ”East of Eden” が目にとまった。そのペーパーバックを手に取ってみると、かなり部厚い。映画「エデンの東」しか知らなかったので、意外な感じがした。ページを繰ってみると、ChapterⅠの[1]は、 The Salinas Valley is in Northern California. (サリーナス渓谷はカリフォルニア州北部にある)という堂々たる書き出しである。It is a long narrow swale between two ranges of mountains, and the Salinas River winds and twist up the center untill it falls at last into Monterey Bay. (二つの山脈に挟まれた細長い草原湿地帯で、サリーナス河がその中央を曲折しながら北に向かって流れ,果てはモンタレー湾に注いでいる。野崎孝訳)と続く。「木曽路はすべて山の中である。あるときは岨づたいに行く崖の道であり……」という「夜明け前」の書き出しを思い出した。

 2007年8月3日に亡くなった兄幹夫は映画「エデンの東」が好きだった。だが、文学作品としての「エデンの東」については、私同様、何も知らなかっただろう。ただ単に、ジェームス・ディーンがいい、大ヒットしたあのテーマ音楽がいいというファンに過ぎなかったようだ。

 彼はいつごろ、どこで「エデンの東」を観たのだろうか。ウィキペディアによれば、「エデンの東」の日本公開は1955年10月である。昭和15年(1940年)生まれの兄は15歳だ。横須賀学院中等部の3年生である。中学3年生がジェームス・ディーンにしびれるというのも考えにくいので、その後進学した県立横須賀高校の時代に、横須賀の名画座あたりで観たのだと思う。

 私はずっとあとになってテレビでこの映画を観て、「な~んだ、ジェームス・ディーンはおれじゃないか」と思ったものだ。ジェームス・ディーンは、父親が長男を溺愛することでコンプレックスを感じる次男を演じている。私たちの父、庄次も長男を溺愛した。私にはそのように思えた。私の手許に父の昭和15年の日記帳が一冊だけあり、その9月22日(兄の誕生日)に「午後出産、大勝利、大勝利」とある。少し横道にそれるかもしれないが、この「大勝利」というのは何なのか。このように書く意識の下には仮想敵がなければならない。「大勝利」のあとに「日本男児声高々に産まれる」とある。日本男児に対応するのは中国孩子かな。

 昭和15年9月という時は、新聞には「満州某重大事件」と報道された張作霖爆殺事件の1年後、日中戦争のひきがねとなった柳条溝事件のちょうど1年前である。父庄次の政治的軌跡を追うことは稿を改めねばならないが、日記の他のページには、世界情勢や国内政治に関する言及も見られるので、一公務員(当時)としては政治的感覚は鋭かったのかもしれない。彼の頭の中では、「満州某重大事件」は明らかに中国侵略の布石であり、それゆえに「大勝利、大勝利」と好戦的な喜びの言葉を書き付けたのだ。逆に、いかに新聞が真実をぼかして報道しようとも、中国に対する日本の侵略的野心は、地方の一公務員にさえ見え見えであったとも言えよう。

 神奈川県水産試験所の職員であった父庄次は、その後、二人の弟とともに遠洋まぐろ漁業の会社を起こして成功した

 長男に対する期待の大きさは、三崎小学校を卒業すると、バスで1時間もかかる横須賀学院へ進学という事実をみればわかる。当時は非常にめずらしかった。あのとき、兄と一緒に横須賀学院に通った少年は何人いたのだろうか。海岸の近くに住んでいた人と新開地に住んでいた人と二人いたと思うが、私も小学生だったので記憶が確かではない。同じ人が住居を移しただけで、兄の同級生は一人だったのかもしれない。

 ここで、小学校時代の思い出を書いておきたい。

 三崎小学校では、毎年、秋の運動会の種目にマラソンがあった。「宮川橋マラソン」と呼ばれて、学校と宮川という集落の小さな橋のたもとを往復するレースであった。往復で4キロメートルぐらいあったろうか。これは六年生だけの種目だったから、私がそれを見たのは小学校四年のときだ。

 マラソンに出た六年生が帰ってきた。

 グラウンドを囲む父兄(昔はPTAも父兄会と呼ばれていた)が見守る中、先頭のランナーが入ってくる。

 優勝はあの人だ。やっぱりな。

 そのあとに走っているのはあの人だ。がんばれがんばれ。

 というぐあいに、次々と6年生がグラウンドに入ってくる。すべてのランナーが帰還し、表彰式が終わり、次の競技が始まる。マラソンのためにグラウンドの一部につくられた走路は再び父兄の観覧席になった。すべての人がマラソンのことを忘れて次の競技に注目しているときに、その人垣をかきわけて、一人の6年生が帰ってきた。それが私の兄幹夫だった。

 彼は何百人という観衆が見守る中、ほかの競技が行われているグラウンドをゴール地点まで半周ぐらい走ったのだろうか。私はあのてれたような笑顔を今でも覚えている。

 なんという愚直さ!!

 落後してグラウンドに入ってこなかった6年生はたくさんいたろうに、ただひとり、みんなが忘れたころにゴールにたどりつくとは。

 なんという愚直さ!!

 この出来事がその後の54年の彼の人生を暗示しているなどというつもりはない。ただただ、これが彼の流儀なんだとなつかしく思い起こすだけだ。

 小学校の最後の運動会に思わぬ注目を浴びた兄幹夫は、前に書いたように、横須賀学院中等部、県立横須賀高校、水産大学と、父庄次の敷いたレールをひた走った。

 県立横須賀高校は神奈川県屈指の進学校であったから、「1年浪人したのは恥だ」と自分で言っていたが、なかなか颯爽とした水産大学生であった。

 入学の感想として言った言葉が「いい男が多いので驚いた」だった。何を考えているのか。自分が一番いい男とでも思っていたのだろうか。

学生証の写真がTシャツ姿だったのは彼の独創だったのか。私は衝撃を受けた。学生服で正面から謹厳実直にという、既製の価値観が音を立てて崩れるのを感じた。

父の遠洋マグロ漁業を継いで、うまくいかなかったが、事業の成否は時の運である。彼は生涯を賭けて父親の期待にこたえたと言わなければならない。

ジャズと映画と推理小説を愛し、批評という思考のスタイルを持っていた彼は、別の道に進めば少しは人に知られた人物になれたに違いない。

イエ*の犠牲になったのが惜しまれてならない。

 (*家業、家族制度、家父長制……もろもろの意味をこめてカタカナで書く)

 

                                                                     石渡正人