翻訳小説 グレアム・スイフト「ヒポコンデリア」4

   「仕事が終わるとどうしてるの。週末は」

 彼は何も答えず、不安そうに机を見ていた。 先生が親しげに話しかけると押し黙ってしまう生徒のようだった。

 「友達はいないの。女の子は」

 答なし。

 「家族は」

 首を横に振った。

 うつろであいまいな表情だ。

 これ以上追い詰めるのはやめて、想像してみる。書類や数字とにらめっこの毎日。ひとりぼっちのマンションのワンルーム。自分の心臓の鼓動や、吐く息、吸う息、消化器のごろごろいう音を聞きながら過ごす眠れぬ夜。私は二十歳ごろの自分を思い出してみた。医大の図書館で教科書に没頭していた。ガイのチ ームでラグビーに熱中していた。 歯学部の女の子とつきあっていた。

 「それで――」と私が話を続けようとすると、

 「先生」とMが辛抱しきれないようにさえぎった。彼は無口だが、こういうふうに人の話の腰を折るのは得意なのである。「どこが悪いのか言ってください」

 「私が言いたいのは、 君が十分な――」

 「そうことではなくて、どこが悪いのか知りたいのです」と、彼は自分の胸をたたいた。私が何か恐ろしい真実を隠していると思っているらしいのだ。「どうかおっしやってください」

 「だから、いつも言うように、なんでもないんだよ」

 「たしかですか」

 「そうだよ」

 「どうしてわかるんですか」

 まるでお互いに手の内を見せぬ質問ゲームのようだ。

 「それが私の仕事じゃないか」

 彼は少し私のほうへ顔を近づけた。疲れきった羊のような顔だが、執拗な高圧的な感じがあった。

 「先生、痛みをなくしてください。この痛みをわかってください」

 口調はおだやかだったにせよ、こんなばかげたせりふを許しておくべきではなかった。だが、私はそれをしなかった。私は自分が椅子の中で衝動的に左右に身体をくねらせているのに気づいた。私は机の上の万年筆をとって、指の間に挟んで回した。

 「見てごらん、何の意味もないことだよ。そう思わないかい。もう、お遊びはやめにしないか。 お互い何の得にもならないじゃないか。もう十分だろう」

 彼は目をしばたいた。

 「さあ、帰りなさい」

 彼は立ち上がり、私はそれを厳しい表情で見つめた。だがしかし、こんなふうに腹を割って話すことを繰り返しているうちに、彼は私の心のひだの奥深くに入り込んでしまっていた。私と彼の関係は緊密で込み入った関係になり、明きらかにほかの患者とは違うことを認めざるを得なかった。ドアのところで、彼は満足したような表情で私を見上げた。彼の生気のない表情からは、何か裏があるとは考えられなかった。このとき、私は理解した。なぜ彼は「苦痛」を大切にはぐくみ、混乱と危機をつくりだし、私の診察室で見え透いた芝居をうつ必要があるのか――彼は経験を積んでいるところなのだ。 

 その晩、妻は寝つかれないようだった。彼女は、私が処方した周産期疾患の予防薬を服用していた。私もなかなか寝つかれず、二人で暗闇で覚めていた。  私は彼女に声をかけた。このことは、口には出さなかったが、彼女の妊娠を知ってから、ずっと言いたいことだった。

「だれの子かな」

「どうして私がそんなことわかるの」と彼女は言った。

  もちろん、彼女は知っているのだ。言わないのは、私を傷つけまいとしているのか、私をなだめすかそうとしているのか。あるいは、もし私の子だとしたら、彼女は私を罰しようとして言わないのだ。 

   私が妻に会ったのは、彼女が二十二歳、私が四十一歳のときだった。今は診療所は私一人でやっているが、当初は妻と二人でやっていた。それ以前に私は超多忙な大病院の世界で二十年過ごしており、それなりの評価も得ていた。しかし、医師として著名な人物になることは目的ではなかったし、生涯を医学に捧げるつもりもなかった。あるとき、開業医なら自分の時間ももてるし、楽しい人生がおくれると思った。そのころ私は楽しい人生をおくりたいという気持ちが強かった。健康と幸福の追求―― そのために医者になったようなものだ。そして、この診療所を開いたときが結婚すべきときであった。私の妻となる女性は若くてセクシ-で、自由で明るい女性でなければならなかった。そういう女性なら、開業に伴う犠牲や束縛を埋め合わせてくれるだろうと思ったのだ。

 バーバラはまさにぴったりの女性だった。ただ、ひよわそうで、守ってあげなければならないと思わせるところがあり、二十二歳という年齢の割には子どもっぽかった。彼女は聖レオナルド病院の血液科に勤務していた。私は常々、血液学には特別の関心をもっていたが、それは私自身が血液に恐怖心をもっており、見るのもいやだったからである。 バーバラは学校を出てから聖レオナルド病院に一年勤務していた。十八ヵ月後に私たちは結婚した。私は古めかしいやりかたで彼女に求婚したかもしれない。