翻訳小説 グレアム・スイフト「ヒポコンデリア」7

車を回してMのアパートに向かったのは四時十五分だった。たとえ虚報であっても、すぐ来てくれというのを断るというのは、事情を知らない者からみれば医師にあるまじき行為だから、おもしろくない結果が待ち受けているのはわかっていた。Mのアパートに着いたのは、四時半ごろだった。ビクトリア王朝時代の、地下室つきの大きな醜い家並みの中の一つだった。外はだいぶ暗くなっていた。入り口のドアが開いていて、数人の男女が私を待っていた。私に電話をよこしたひとだろう、ちぢれ毛の眼鏡をかけた女性、背の高い気難しそうなカリブ人、奥のほうの部屋から出てきた青いカーデガンの中年男性。階段の手すりによりかかっている女性もいる。みんな私に敵意を抱いているのがわかった。私から一番遠くにいる階段の女性が最初に口を開いた。

 「なんでこんなに遅いのよ」

 眼鏡の女性が説明した。「救急車を呼んだのよ」

 「なんですって」

 「三十分くらい前に救急車をよんだのっ。本当に心配したわよ」

 「いったい、何があったんです」

 「彼は五時間も」と、カリブ人がじろじろ私を見ながら言った。「五時間もあなたを待っていたんだぞ」

 私はコートを着たまま、往診鞄を待って入り口に立ちつくした。これはみんな――救急車の件も――嘘で、ここにいる連中はみんなMとぐるになって、手の込んだ悪ふざけを私にしかけているのではないかと思えた。何が本当で何が嘘かを見極めなければならなかった。アパートの入り口は暗く寒かった。

 床や階段に敷いてあるリノリウムはぼろぼろだった。夕食の仕度のにおいが充満していた。私の前にいる連中は恐怖映画の登場人物で、私は容疑者として彼らの前に引き出されているようだった。何もかも異様だった。

 努めて冷静をよそおい、私は言った。「いいですか。確かにMは私のところに何度か来ました。彼の状態はよく知っています」。そして眼鏡の女性のほうに向き直り、「けさ、私に電話をくれたのはあなたですね。あなたと二人で話したいのですが、皆さんお願いします」と言った。ほかの者はじっと私を見ていたが、  やがて静かに立ち去った。カリブ人が振り返って言った。「話してあげな、ジェニー」

 私とジェニーは、二階の彼女の部屋に入った。椅子の上のカラフルな膝掛け、暖炉の上の鉢植えの植物が薄暗い散らかった部屋の雰囲気をやわらげていた。彼女は煙草に火をつけ話し始めたが、私を疑っているような話しぶりであった。彼女はさまざまな、つじつまの合わない症状を私に話した。どれもMが診察室で私に話したことであり、特に付け加えるようなことは何もなかった。無表情に聞いている私の顔を見て、彼女はむっとしたようだった。

 「吐いたりしていましたか。熱は。顔が赤くなったり、発疹が出たりしていましたか」と私は尋ねた。

 それはあなたの仕事でしょう、というように彼女は肩をすくめた。

   「先生、彼は痛くて叫んでいたんですよ一一苦しんでいました」

   「わかります」

   私はMの部屋を見たいと言った。それが重要なことなのかどうか、私にはわからなかった。少し考えてから彼女は言った。「いいわ。隣の隣の部屋です。救急車が来たときに鍵を預かりました」

 廊下を歩きながら、私は彼女に尋ねた。

  「彼のこと知っていますか。ここには長いのですか」

  「付き合いの少ない人で、おとなしい人です。最初、外国人かと思いました。彼のことを知りたかったんですが、無理にというわけにはいかないですから」

 「身寄りは」

 「たぶんいないと思います」        

  私がここに到着したときに最初に口を開いた女性が、再び階段のところに現れた。「かわいそうな子だよ。人に迷惑をかけるような子じゃないよ」

 「わかっています」と私は言った。

  Mの部屋は清潔で、すべてがきちんと片付けられていた。壁際のベッドの上は乱雑であったが、家具――アームチェア、コーヒーテーブル、木製の椅子が二つ、引き出しつきの衣装だんすは、場所が決められているようであり、未使用で来客を持っているようであった。服が脱ぎ捨ててあったり、新聞が散らかっているようなことはなかった。暖炉には、燃えさしや妙なものの燃えかすもなかった。部屋の隅に壁を切り抜いたところがあり、そこが流しと食器の水切り台になっていた。二口のガスコンロとやかんのある調理台、その上と下には戸棚。どれもみな、ありきたりの古ぼけたものだが、流しには汚れた皿や食べ残しもなく、水切り台もきれいに乾いていた。つまり、生活の跡がないのだ。ただ、ベッドの上の二段の本棚は別であった。並んでいるのは、雑多なつまらないコレクション、さまざまな学科を詰め込まねばならない高校生のような、浅く広いテーマを扱った本ばかりだ。その中に、背文宇がすりきれた古いブラック社の医学辞典を見つけたときは、納得したような気持ちになった。部屋の中のすべてが私を圧迫し、不安にさせた。私はベッドの周囲を見回し、小さな引き出しを開けてみた。何かをさがしていたわけではない。空になった市販の薬瓶、いくつかの症状に関する素人くさい自己診断のノートがしまってあった。

   「何もわからないでしょう。 ご承知だと思いますが」

 あからさまに私を非難するような調子でジェニーは言った。部屋を出ようとしてドアのほうに歩いていったが、もう一度部屋を見回してみて、私を不安にさせたもの、恐怖に近い感情を抱かせたものが何だかわかった。人生の荒波にもまれる前の、無垢な幼児ののり心のような部屋だったのである。

 アパートを出る前にジェニーに言った。「病院へ連絡してみますよ。もっと早く来る

べきでしたが、危険な状態ではなかったと思いますよ。信じてください」彼女は無愛想にうなずいた。