エリック・ドルフィ論集⑥「フリージャズ」(ライナーノーツ翻訳)

 これは極めて異例なレコードである。異例ずくめでどこから書き始めたらよいかわからない。いくつかの部分の簡単な打ち合わせをしただけで、フリーな即興演奏が延々と続いた。録音は一回だけだった。演奏がいつまで続くのか、誰もわからなかった。2台のテープレコーダーは回り続け、〈フリージャズ〉が終わったときはLPレコードに収録可能な38分を超えていた。追加の演奏もなければ、テープをつなぐ編集もなかった。

 さらにまた2本の管楽器、2本のトランペット、2ベース、2ドラム、ユニークな楽器編成と演奏である。曲の形式がある。オーネット・コールマンのスタイルが異例であることは言うまでもないが、このLPを聞いてもわかるとおり難解である。ジャズの演奏は(クラシックのコンクールのように)さらに大きなチャンスをねらうものではないから、これはテストではない。ほぼ全員が即興演奏をやったばかりでなく、8人全員が一瞬のひらめきで参加したのである。そして、テーマ、コード進行、コーラスの長さにも先入観がなかった。

 ある一定の音程領域の合奏が各ソリストへの合図であった。あるいはソリストと伴奏者の感覚やイマジネーションでソロをとることもあった。

 オーネット・コールマンはこう説明している。「俺たちはエレクトロニクスがとらえることができるぎりぎりのところまで理性と感情をコントロールしているんだ。

 コールマンは彼の音楽の基本概念について、「固有」のハーモニーと調性を確立するために自由なアドリブを促し、従来のコード進行にとらわれないとも言っている。しかしながら、彼の特徴は基本的には情感と美学であて、テクニックではない。音楽は「感情の背景にあるものではなく、理性と感情」の直接的、即興的な表現である。

 当然のこととして、現代の描象絵画、西欧の現代音楽との比較が思い浮かんでくる。演奏者相互の音程とリズムに従って即興演奏され、演奏開始時に生まれるアナログな伝統音楽の流れとの比較もそうである。

 ここでのソロは(ニューオリンズジャズと同様)リード奏者の応酬である。「最も重要なことは」とコールマンは言う。「独自のスタイルにこだわらずにお互いのアドリブの十分な余地を残し――LPの収録時間いっぱい、この原則に従って全員が一斉に演奏すること。ソリストが何か音楽的なアイデアや指示を僕に送ってくるときは、僕はその後ろで自分のスタイルで演奏する。もちろんソリストは彼の演奏を続ける」ということは、音程、メロディー、感情補完に基ずくある種の対位法である。

 このセッションの前には、一緒になって二、三回演奏しただけで、リハーサルは一切行われなかった。コールマンとチェリーはこのような自然発生的な即興演奏にはなれているし、ドラムのビリー・ヒギンズとエド・ブラックウェル、ベースのチャーリー・ヘイデンは2人とよく一緒に演奏している。スコット・ラファロもコールマンのカルテットで演奏したことはあるが、彼自身は心の底からの揺るぎなきハーモニー信奉者だと自分で言っている。フレディ・ハバードはエリック・ドルフィと共演したことがある。コールマンはフレディをドン・チェリージャムセッションを聞いたことがある。フレディの演奏は他のメンバーより保守的に聞こえるかもしれない。スコット・ラファロもそうだろう。否定的な批評をするつもりはないし、2人がトータルな即興演奏に溶け込んでいないとを言っているのではない。2人の耳は反射的にハーモニーを聞きとって合奏のわずかな導入部の音程をとるだけでなく、ハーモニーをとっているのだと思う。この2人のソロは他のメンバーのそれと魅力的、効果的な対照をなしている。

エリック・ドルフィの位置はコールマンとハバードの間にある。(ちなみに彼はアルトではなく、バス・クラリネットを吹いている)。彼はすべて調性とハーモニーを念頭においてやっていると言っていたし、抜群の洗練された音感の持ち主である。通常、彼のハーモニーやコーラス(アドリブの長さ)のとり方は、非常にフリーである、と私は思う。このアルバムでは、彼は一層大胆にフリーであり、「楽器に語らせる」という彼の努力の進展がうかがわれる。(たとえば、ハバードのアドリブの最中、ドルフィーのホーンが笑いながら声援を送っているように聞こえるところがある)。

 〈フリージャズ〉はよくあるような主題と変奏ではない。ソリストを誘導し、後押しする導入部分が簡単に記されているだけである。ソリストは「変奏」を展開するのではなく彼らの即興演奏が音楽そのものであり、瞬間的には創造されるすべてが「主題」なのである。

 ベース奏者2人とドラム奏者2人は一貫して見事な演奏を展開している。管楽器奏者はそれぞれ5分間のソロをとっている。リーダーは10分である。ベース奏者とドラム奏者もそれぞれ5分のソロをとっている。ソリストを誘導する短い合奏はだいたい同じ音楽的素材を用いているが、断片的なときもあるし、異なったスコアとボイスを用いているときもある。新しい素材を用いているところもある。また、コールマンによれば、自然発生的というか、ほとんど偶発的に譜面化されていた導入部が省略され、ブラックウェルがハバードの合奏部分を反復したところもあるという。ついでながら、合奏は必ずしもクリーン(整合性)を表現しておらず、すべてのホーンが割り当てられた音を一斉に吹いている。それはある意味では思いつきのようなさまざまな音の合成である。

 〈フリージャズ〉は2本の管楽器の対位法的な演奏で始まる――事実上、ある種の音合わせ、感覚的なすり合わせである。続いて、最初の合奏、コールマンはこれを「ハーモニック・ユニゾン」と呼んでいる――それぞれの管楽器には演奏すべき音があるが、ハーモニーではなくユニゾンとして聞こえるように間隔をとってあるという。彼自身の説明を聞いて初めて納得できるようなコールマン独特の用語(そして手法)である。次に、ドルフィのソロが続く。彼が2倍の時間のソロを展開するときは、ドラム奏者と直接的に反応する。コールマンが言うように「ドルフィはバックの楽器をすべて演奏しているように伴奏者と反応するときがある」のだ。

 ハバードのメロディへの導入が続く。これもコールマンの説明によれば「もう一つの音程でのハーモニック・ユニゾン」である。ハバードのソロはベースとドラムのバックで始まるが、すぐに支援するような形で管楽器が加わる。すぐにハバードを再び後押しするようになり、またベースとドラムだけになる。

 コールマンのカルテットの合奏は、さまざまなサウンドが次第にまざり合って、やがて複雑なテーマとなる。それぞれの管楽器がさらなるフリーな演奏に分散する前にコールマンがテーマを二度繰り返すところに注意していただきたい。コールマンのメロディに対する各自の応答が、このLPの中で最も複雑な織物をつくり出すのである。この部分を聞いたコールマンは、次のようにコメントした。「それぞれのプレイヤーのフリーなジャズが美しく溶け合うのがわかると思う」。

 A面はドン・チェリーの導入で終わり、彼のソロが始まったところで電気的なフェイドアウトとなる。B面は再び合奏で始まるが、一部「移調ユニゾン」になっていて、コールマンのソロを導く。初めにカルテットの合奏があり、ドン・チェリーがベースとドラムをバックにソロをとる。それから、バードが再登場し、次に、コールマンだ。

 ユニゾン合奏のあとにチャーリー・ヘイデンのソロがあり、ここはバックでドラムが静かにスイングしている。ヘイデンはメロディを大事にする。スコット・ラファロは合奏のハーモニックノートに続き、名人芸を聞かせてくれる。ラファロの演奏が高度に複雑になってくると、それまでの管楽器とは対照的にストレートにメロディックになって、まるでジャンゴ・ラインハルトの即興演奏のようだ(最初に書いた異例という言葉を使うとこのLPは2人のベース奏者のみごとな演奏だけを取り上げても異例なのである)。

 「ハーモニック・ユニゾン」は、エド・ブラックウェルに引き継がれる。コールマンによれば、「エドはリズム、スピード、メロディと、3次元的なソロをやっている。これはビリーも一緒で」2つのドラムは本質的なところで融合している。もう一つのカルテットでビリー・ヒギンズの素晴らしいシンバルソロが聞ける。もちろんそのバックにはエド・ブラックウェルがいる。もう一度言うが、この異例のドラミングの先進的なテクニックと音楽性を支えているのは感性である。「彼の感性が自由なリズムと拍子の根本にある」とコールマンは評している。

 エンディングは、録音を聞いたコールマンが「楽器が人間の声のように歌ってるじゃないか」と言ったように、和声的である。

 ここに集まったジャズメンは、何の先入観もなく自発的な集団即興演奏を行った――そして、たいていはある調性のブルースに収束したのである。彼らはまだ若く、ジャズをやってきた経歴も違うが、何ものにもとらわれることなくここに表現されたように音楽に献身し、ジャズを支えていくだろう――というのがこのLPへの賛辞である。

 その一方で、「新しさ」や「差別化」にとらわれることなく「人間が叫び、しゃべり、笑う」ような演奏こそ、オーネット・コールマンの音楽の最も根本的な理解である。

                      マーティン・ウイリアム