サルトル「嘔吐」の新旧翻訳対照
久しぶりにサルトル「嘔吐」を本棚から取り出した。そうとう古い。奥付を見ると、<昭和43年8月1日改訂重版発行>とある。森本和夫氏が新訳を出したのは、もう10年前になるだろうか。気になっていたのだが、先日、プルースト「失われた時を求めて」に取り組んでいる友人からメールがあって、井上究一郎の翻訳に疑問を呈していたので、私も「嘔吐」の新旧訳を調べてみる気になったのだ。
古今東西、友達を大事にせよという教えは多いが、実にその通り、歳を重ねれば重ねるほど、そうなのだ。なのに、友達は少なくなってゆく。まことに人生はambivalentである。
森本氏の新訳を図書館から借りてきて、さて全文の新旧対照はとても無理だ。部分的にやるとしたらどこがいいか。やはり、公園でマロニエの木の根を見て吐き気をもよおすという有名な場面だろう。ロカンタンは吐いてはいないので、「嘔吐感」あるいは「吐き気」が内容に沿っているとは、昔から言われていることである。上に書いた白井訳では146ページ。時刻は午後6時だ。
Ⓐを白井浩司訳、Ⓑを森本和夫訳として、冒頭の
Ⓐ 私は気が軽くなったとも満足を感じているともいうことはで
きない。
Ⓑ 重荷を下したというような感じでもないし、満足したという
こともできない。
の比較は問題にならないであろう。翻訳者にもそれぞれ文体というものがあるからだ。次のページに少し進んで3行目、
Ⓐ 晴着を着て海辺を散歩
Ⓑ 春物を着て海辺を散歩
はどうか。晴着と春物――二つの意味をもつフランス語があるのだろうか。
こう見えても私は昔フランス語をかじったことがあるので、手持ちの辞書と図書館の辞書を調べてみると、晴着と春物の違いははっきりしている。
晴着なら、habit du dimanche、日曜に着る服
春物なら、tenue printanière 、文字通り、春の服である。
これなら、かえってわかりやすい。誤訳の生じる余地はなさそうであるが、原著ではどうなっているのだろうか。調べてみたくなった。
* *
便利な時代、いや、すごい時代になったものだ。「嘔吐」の原書“La Nouse”が1500円、1か月足らずでフランスから届いた。ガリマールのフォリオ叢書だ。ガリマールの名は、サルトルが何度も足を運んだ出版社として、多少なりともフランス文学に関心のある者は忘れられない。今問題にしているところを見つけるのに手間がかかるのが心配だったが、ページ数の目分量で簡単だった。179ページの10行目にhabits de printemps とあるのがそうだ。英語なら clothes of spring で、春の服つまり春物だ。どうやら白井の「晴着」は誤訳らしい(先学に敬意を表して推量にしておく)。
それから、気になるのは、私の持っている白井訳「嘔吐」の、「晴着」と同じ147ページ下段、4行目から5行目、
Ⓐ白井訳 ところでそれはこれだった。
何だろうか。「それ」も「これ」も何を指示するのかわからないし、前後のつながりもない。森本訳ではこうなっている。
Ⓑ森本訳 それから不意に存在がそこにあった。
なるほど、そういうことか。白井訳の「それ」あるいは「これ」が「存在」と訳されているのだ。しかし、上の晴着と春物と同じ疑問だが、同じフランス語の文章から、どうしてこんな違いが生じたのだろうか。ここは存在開示の大事なところだ。原書が手に入ったので、あたってみよう。同じ179ページの30行目にある。
Et puis voilà : tout d’un coup, ……
え!? コロンが使われているではないか。私の持っているデビッド・セイン「朝日英語スタイルブック」(朝日出版社)には「コロンの主な役割は、文中で総括的な情報とより詳細な情報とを分けることにある。」としている。そして、その代表的な例として「8:15」を挙げている。私自身は、翻訳をしていてコロンに出会うと「すなわち」とか「つまり」と置き換えてみることにしている。この二つの日本語がふさわしくないときは、ダッシュ(――)でつなげる場合もある。
さて、voilà だが、昔、ラジオ講座でフランス語を学習していたときに、父親が息子にプレゼントの箱を開けるときに「ヴォアラ」と言っていたのを思い出した。この場合もそれだとすると、
そして、それから、ほら――
と訳せる。この後に白井訳と森本訳をつなげてみよう。
そして、それから、ほら――Ⓐ (白井訳) たちまちのうちにそれはそこに、きわめて明瞭にそこにあった。存在はふいにベールを剥がれた。
そして、それから、ほら――Ⓑ (森本訳) それから不意に存在がそこにあった。それは火を見るよりも明らかだった。存在はとつぜん、ベールを脱いだのである。
森本訳はコロンの前後をひとまとめに訳してあるのでうまくつながらないが、「それから」を取るとわかりやすくなるので、二重線をつけてみた(ここではアンダーライン)。ハイデガーふうに言えば、存在者がその存在者のほうから見えるようになった重要な場面なのである。コロンは大事だ。白井さんも森本さんも、なぜ原文に忠実にコロンを生かした翻訳をしてくれなかったのだろうか。
このあと、不条理という語が頻出するようになる。周知のとおり、サルトルのこの作品は「偶然性にかんする弁駁書」という哲学論文めいた題でリセの哲学教授時代に書き始められた。当時の内容も推して知るべしだ。ボーボワールの助言をいれ、ガリマール社の意見をいれ、出版まで7年もかかったというから、肉付けというと聞こえはいいが、水増しともいえる。この作品を論ずるとき、だれもが必ずこの公園のマロニエの場面をとりあげるのは、ここだけが「偶然性にかんする弁駁書」の原型をとどめているからだろう。ここだけが、これもハイデガーだが、存在忘却から存在了解に飛躍する場面で、哲学の小説化として成功している。はっきり言って、独学者もアニーもどうでもいいので、つまらないのは当然である。
だいいち、不条理という語(森本訳では不条理性)で難渋しているところに「完璧な瞬間」など持ち出されては、読者は辟易するしかない。absurdite、英語でabsurdity を不条理と訳したのは白井さんだろうか。この語は「ばかばかしさ」という意味もある。芥川の「マッチ箱」である(*)。不条理もしくは不条理性という語が定着してしまっている以上、「ばかばかしさ」を主張しても意味がないようにみえるがabsurdite=ばかばかしさが生きるように訳し直すことには意味がある。ベケット「ゴドーを待ちながら」の世界に近くなるだろう。
(2001年6月)
(*)「人生は一箱のマッチに似てゐる。重大に扱ふのは莫迦々々しい。重大に扱はなければ危険である。(芥川龍之介「侏儒の言葉」)