ジェームズ・ボールドウイン「頭のすぐ上に」抄訳(24)DELLぺーパーバックP274~

ジェームズ・ボールドウイン「頭のすぐ上に」抄訳(24)DELLぺーパーバックP274~

(喫茶店を出て、アーサーはジュリアを家まで送ったが、家の前まで来ると、ジュリアが「家で少し休んでいったら?」と誘う。アーサーは断りたかったが「友だちでいてやってくれ」というクランチの言葉を思い出し、一緒に家の中に入った)

ジュリアの父親の声がリビングから聞こえた。「ジュリアか?どこへ行ってたんだ」

アーサーはジュリアが一瞬息をのむのを感じたが、彼女が答えるより前に、ジョエルがリビングから出てきた。彼は酔っていて、パジャマの前をはだけただらしない姿で、つかつかとジュリアの前に歩み寄った。

「お前のために早く帰ってきたんだ。どこかへいなくなったと思ったぞ。どこへ行ってたんだ」

「ダディ、映画を観に行ったのよ。アーサーが送ってくれたの」

彼にはアーサーが目に入らなかったが、ジュリアの言葉で気がついた。

彼はアーサーを見た。アーサーは風呂に入りたかったし、小便もしたかったが、ジョエルに見据えられてそんな欲求は凍りついてしまった。たとえ命がかかっていたとしても、小便もできず身動きもできなかった。ジョエルは酔いの回った顔で、きれいな髪は逆立っていた。アーサーを見たときのジョエルの顎の筋肉は脈打ち、口は力なく開かれ、驚きと苦痛と憎悪が目からほとばしっていた。濡れた唇の間から白い歯がこぼれ、驚きと苦痛と憎悪――とりわけ憎悪のために、彼はひきつけを起こして息がとまりそうだった。苦しみのあまり、彼の手はけいれんし、アーサーの喉を切り裂かんばかりであった。

「だれだ、お前は。俺の娘をどうしようってんだ」彼はジュリアを見た。「お前、まちで男をひろってきたのか」

「ダディ」とジュリアは言った。「アーサーよ。小さいときから知ってるじゃないの」

「馬鹿を言うな!おとなじゃないか。夜中に娘とのこのこやってきやがって、娘に近寄るな。黒んぼのくず野郎。娘にゃ俺がついてんだ」

アーサーは言った。「僕を知ってるでしょう、ブラザー・ミラー。僕の家族――父や母や兄のホールを知ってるでしょう。僕の父はポール・モンタナですよ」

この身元証明が、通路の真ん中でふらついているジョエルの脳に徐々にしみ込んだようだった。「モンタナだと?ピアノ弾きのか?」

「そうですよ。僕は下の息子です。僕たちは映画を観に行って、ジュリアを送ってきたんです。それだけですよ」

ジョエルはゆっくりと口を閉じた。目から激しい感情が消え、焦点が定まってアーサーを見た。アーサーを見て、自分のパジャマの前がはだけているのに気づいた。彼は背筋を伸ばし、あわててパジャマのボタンをはめた。彼はジュリアに言った。

「なんで早く言わねえんだ」

「言うひまもなかったのよ、ダディ」

彼女は、憐れむような冷めた目で彼を見た。

ジョエルはアーサーに視線を戻した。そのときアーサーが彼の目の中に見たのは、少し前の憎悪より耐え難いものだった。ほんの数秒前の彼の目には、憎悪がみなぎり、石炭のように黒く輝いていたのに、今は怖れのために生気がなく、しぼんでいた。数秒前、彼の声は壁を震わせ、隣人の眠りを妨げるぐらいだったが、今ではひび割れた乾いた小声に変わっていた。

「おやじさんは元気かね」彼は絞り出すように声をだした。「しばらく会ってないから――それで君のこともわからなかったんだよ」彼は笑おうとした。「勘弁してくれよな。女房をなくしてから苦しくてな。立ち直れないんだよ」と言いながらジュリアを見たとき、奇妙なことに彼の目に生命力がゆらめき、アーサーは心を動かされた。彼はまたアーサーを見た。「母親がいないんで、娘のことが心配で気が狂いそうなんだ」彼は心配を隠すのに笑顔をつくろうとした。「娘を守ろうとして乱暴な口をきいたが、許してくれ。娘がすべてなんだ」彼はジュリアのほうに顔を向けた。「アーサーをリビングに連れて行って、飲み物を出してやってくれ。俺は寝ることにするよ」彼はアーサーを見てほほえんだ。「若い者同士のじゃまはせんよ」そして急に大まじめになってアーサーに両手を広げ「許してくれよな。娘を守ろうとしただけなんだ。怒ってないよな」

アーサーは彼の手を握りながら「怒ってなんかいませんよ」
ジョエルは階段を上りながら言った。「おやすみ、ジュリア。またあした」

「おやすみ、ダディ。ゆっくりやすんで」

「おやすみ、アーサー。家族のみんなによろしく言ってくれ。俺とジュリアで近いうちに会いに行くよ」

「おやすみ、ブラザー・ミラー」 

ジョエルは階段を上りきって姿を消した。ジュリアとアーサーはあっけにとられて顔を見合わせた。