ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」抄訳(38)DELLぺーパーバックP454~②

ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」抄訳(38)DELLぺーパーバックP454~②

 ガイはカウンターの女性に合図をする。彼女は笑顔で歯――歯痛の治療で何本か欠けている――を見せてそれにこたえる。アーサーとガイはそれを後にシルクとフランネルが敷かれた階段をのぼってゆく。

 二人は広々としダイニングルームに入り、隅のテーブルに席をとる。

 ガイは笑顔で言う。「そうぞうしくてすみませんね。いつも一人で来るときは静かなんですが」「一人のときはそんなに気にならないですからね」

 アーサーはパリの一面にふれたことで興味をそそられて、心が浮き立つのを感じる――たしかにパリの裏通りに足を踏み入れるのはアーサー一人ではできないことであり、殻を脱いでパリにとけこめるのはガイと知り合ったおかげといわなければならない。

 一人でホテルにこもっていたり、一人で散歩したりするのではわからない、いかにもパリらしい場所である。

 「ここなら夜中まで開いているし、邪魔をするやつはいないですよ」

 彼はジタンの箱を取り出してアーサーにすすめる。アーサーは首を静かに振って、ていねいに断る。

 「前に吸ったことがあるんですが、胃が頭に突き抜けるような気がしたんです」二人で笑った。ガイはジタンに火をつけた。「次にパリに来るときは、勇気がついていると思います」

 「煙草のことでそんなに深く考えることないですよ。またパリに戻ってきますか?――じゃ、僕の印象は悪くないわけですね。いつですか?」

 「いつかわかりませんが、戻ってきたいと思います」

 沈黙が流れ、ガイは煙の向うのアーサーを見つめる。

「戻ってきたいというところをみると、もどってきますね。僕もまたお会いしたいと思います」

 アーサーは内向的な性格ではない。どんなときでも気おくれするということはなかった。特にここはアメリカではないので、大胆で強気だ。「僕に会いたい?なぜ?会ったばかりなのに」

 「そう。あなたに会いたいという僕の気持ちをたしかめるために会う必要があるんですね」

 二人の視線が合う。アーサーは含みのある微笑を浮かべてうなずく。ウエイター――階段に腰を下ろしていた男だ――がトレイを持って近づいてきて、注文を待っている。

 「何にしますか」

 「コニャックを飲んでいたのですが、ほかのものにします」

 ガイは彼を見つめ、何とはなしに二人で笑う。

「今度は何にしますか」

ウオッカのダブルをオンザロックで」

「じゃ、僕も同じで」

 ウエイターは離れていく。アーサーは同室の客がいなくなっているのに気づく。まるでアーサーとガイだけになるように、だれかが仕組んだようだ。

 まさかとは思うが、あり得ないことではない。気にはなったが、どうでもいいことだ。ウオッカを飲みたかった。とことんつきあってやれ。何があっても構うものかという気分になっていた。

 この瞬間、理屈抜きでガイのことが好きになる。アーサーは無言で煙草に火をつける――同時にガイはジタンの火を消す――ウエイターがウオッカのダブルを持って近づいてくる。

 二人はグラスをとって合わせる。

「あなたはパリに住んでいるんですか?」

「パリに来たのは最近ですよ――フランスの片田舎から来たんです――ナントの近くですが」

「どのあたりですか?」

「北のほうですね」ガイはウオッカをすすった。「北のはずれです」

「パリへは何をしに」

 ガイは笑って「つまらん仕事ですよ――何といったらいいかな――アシュラーンス――保険ですね」

「生命保険ですか」

「そこまで落ちたくないです」彼はアーサーの顔を見て笑った。「生命保険でなく火災保険ですよ。盗難とかそんなもんです――金持ちの財産を守る仕事です。やりがいのある仕事じゃないですか?」

「金のない人間が金持ちになるというのは?」

「それは難しいですね。野心的ではありますが――あなたは何をしていらっしゃるのですか?」

「歌を歌っています」

「そうですか。どんな歌を?」

「ゴスペルです」

「何ですか」

アーサーはその質問を待っていたように、褐色の瞳の目を見開いて言う。「ゴスペルを歌っているんです――ゴスペル歌手です」