ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」抄訳(38)DELLぺーパーバックP454~③

ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」抄訳(38)DELLぺーパーバックP454~③

「わかりました。マヘリア・ジャクソンが歌っていますね。あなたの歌を一度聞きたくなりましたよ」

「僕もあなたに聞いてもらいたいです」

しばらく二人とも話をすることなく時が流れ、床を通過して上がってくるような階下の音楽が聞こえる。アーサーは指で机をたたいてリズムをとる。

「階下はナイトクラブになっているんですよ。踊りましょうか」

「いえ」と応えたきり、アーサーは指でリズムをとっている。

「きれいな指ですね。ピアノも弾くんですか?」

「ええ」お互いに張りつめた空気をほぐすようなほほえみを交わす。

 アーサーはゴスペルについて説明するが、まるで歌手ではなく評論家のようだ。自分の経歴や兄のホールのことや南部について――ピーナットを除く家系についても――話せるのが、彼自身少々驚きでもあった。ガイの表情はだんだん真剣味を帯びてきて、アルジェリアに従軍したころのことを話した。思いがけず、半ば無意識に二人は互いの距離を縮めようとしているようだ。理性ではなく、本能が二人を危険な領域に近づけているのだ。二人はそんな危険な領域に足を踏み入れまいと思っている。別々の旅の途中、混雑した待合室で出会い、言葉を交わしているようなものだ。もっと早く会っていたら、もう一度会いたいと思うと同時に、異なった土地で異なった生き方をしてきたからこそ、今ここでこうして会えるのだと思わざるを得ないのである。「甘さと苦さを一緒に味わわねばなりませんよ」アーサーは急に小さな声で歌うように言う。ガイはアーサーに合わせるように小さくうなずき、彼の顔を見つめる。ガイには〈甘さ〉と〈苦さ〉のつながりが理解できない。「あなたは素晴らしい」と子どものような明るい笑顔でガイが言うと、アーサーはおどけたようにスキャットで歌を続ける。ウエイターが近づいてくる。ガイは言う。「聴衆は踊るのを忘れて聴きほれるでしょうね」アーサーはにやりと笑い、ウエイターに二人分のウオッカをダブルで注文する。

 広い部屋に客は二人だけだ。

 「いつパリを離れるんですか?」とガイは尋ねる。

 アーサーはまじめな顔になる。

「さあ。きょうか明日、出発しようと思っていました――帰国しなきゃならない事情があるんです」

 アメリカに帰ってすぐ南部に行かなければならないことは、もうガイに話した。

「きょうじゃなくてもいいでしょう」とガイは急いで言った。「きょうは無理ですよ。もう朝の3時過ぎです」彼は平静をよそおってウオッカをなめ、煙草に火をつける。そしてアーサーの目をまっすぐ見つめる。「きょう一日、いやもっと僕に付き合ってくれるとありがたいな」彼は目を上げてほほえみ、自分の手をアーサーの手に重ねる。「いいでしょう?うんと言ってくれますか?」

 彼の手はとても大きく、重く――やわらかい。たっての願いにこたえないわけにはいかない。アーサーは身体を前に倒しながら、にっこり笑ってこたえる。ガイもにっこりとする。「ありがとう。きょうは会社は休みますよ。朝起きたら僕がランチをつくります。僕は料理がうまいんですよ。外で食べてもいいですよ――パリを案内します。僕のことも知ってほしいです。楽しく過ごしましょう」

アーサーは自分の手を握ったガイの手の上に、もう一方の手を重ねる。

「それで、僕は明日の飛行機に乗れますか?」

「それは明日ゆっくり話しましょうよ」

二人で笑った。

「乗れそうにありませんね」

「そうですね」

 二人はまた笑ったが、前のような笑いではなかった。ガイはアーサーの手を握る手に力をこめ、アーサーも強く握り返す。

 「あなたが好きになりましたよ」とアーサー。

 「僕もです。とても」

 重ねた手に力を入れて引き寄せ、互いの目をのぞくようにして、二人は唇を合わせる。ガイは目を閉じる。体内に戦慄が走り、それがアーサーに伝わる。ガイは目を開き、抑えきれない衝撃を覚えながら、少年のような輝く瞳でアーサーの目を見る。するとアーサーはガイの顔を両手で挟み、再びキスをする。発作のような解放感にとらわれ、彼は身体をふるわせる。未知のまちの初めての店の二階で未知の男とキスをする。ママとパパは眠っている。兄弟は仕事、神様は安らぎの新世界ニューイングランドをくまなく調べている。世界は多忙で、注意も気配りも審判もない。アーサーの過去は、重い幻のようにアーサーから滑り落ちるようだ。彼はそれが床に堆積するのを感じ、足で押しのける。ジュリア、クランチ、ピーナット、レッド、兄ホール、聴衆、樹木や街の恐怖、きのうの重荷、あすの恐怖、今この瞬間、すべてが抜け落ちて歌だけ――彼は歌っているときのように裸の自分をさらけ出して求める。ガイは感じやすい大きな身体をふるわせ、それがテーブルを通してアーサーに伝わり、アーサーもまた喜びと感謝で身体をふるわせる。彼にはわかる。抜け落ちた過去はいつか拾い集めなければならないが、今ではない――今は、すべてをさらけ出して互いの腕に抱かれることだ。二人の身体が離れる。沈黙が流れる。それぞれの喜びを味わいながら、深く静かに互いの体臭を吸い込む。

「どう?」

 アーサーはこの言葉の意味を、言葉ではなく目で理解する。

彼は重々しく答える。「ええ」

「出ましょうか」

「ええ、どこへ」

「僕の部屋へ。すぐそこなんです――ラ・ルー・デ・サン・ペレ」

「聖なる父の道――ですか?」

ガイはにっこり笑う。「そうです。たぶん僕には初めての道です」

「道の名前はなくても、番号があればいいんですけれどね。いずれにしても、その聖なる父はろくでなしですね」

店を出るといいながら、どちらも腰を上げない。二人ともウオッカをなめ、息を吐く。

ウエイターが戻ってくる――今までどこにいたんだろうか? しかし、そんなことはどうでもいい。ガイは請求書を要求し、支払いを済ませる。