ミッドウェー海戦と山本五十六

 ミッドウエー海戦――アジア・太平洋戦争に関心のある者は、大日本帝国海軍アメリカ太平洋艦隊に大敗した海戦として記憶していることだろう。しかし、記憶に留めておくだけでなく、この海戦が行われた日付が日米開戦のわずか半年後であることに注意を向けてもらいたい。大日本帝国は、海軍が壊滅的な打撃を受けながらも、なお三年余にわたって戦い続けたのだ。私は当時の戦争指導者たちの執念を讃えようとしているのではない。反対に彼らの愚かさを糾弾したいのである。

 作戦の立案者は、真珠湾奇襲と同じ山本五十六である。真珠湾のときも「この作戦が認められなかったら辞める」と軍令部に言ったが、ミッドウエーのときもそうだった。辞めればいいではないか。辞めさせればいいではないか。こんな子供じみたやりとりで、日本を滅亡に導いたのが許せない。真珠湾奇襲が大勝利と新聞やラジオで喧伝され、山本五十六は国民的英雄にまつり上げられていたから、軍令部としては辞めさせるわけにはいかなかったろう。だが、その大勝利の実態は、真珠湾に米海軍の空母は一隻もいなかった。アメリカ国民を参戦に向けて一致団結させてしまったことを考慮すれば、背筋が寒くなるようなものだったのだ。

 山本は奇襲攻撃前に、「二、三年は暴れてみせましょう」と言ったと伝えられるが、1937年7月7日に勃発した日中戦争がどういう経過をたどっているか、知らぬはずはあるまい。これが、私が山本を凡将愚将とみなす根拠である。

 このミッドウエー海戦については、澤地久恵「滄海よ眠れ」、森史郎「ミッドウエー海戦」(*1)、亀井宏「ミッドウエー戦記」(*2)をはじめ、おびただしい研究書があって、証言者の記憶違いやそれぞれの著者の見解の相違があって、真相をつかむのは容易ではないが、ダイヤモンド社「失敗の本質―日本軍の組織論的研究―」をもとに、敗因をまとめてみた。 

  1. 日本海軍の暗号が米軍に解読されていた。

 この問題は、米海軍の空母艦隊やミッドウエー基地の守備隊の待ち伏せに直結する。前者については次に述べるが、後者については、日本の各空母から出撃した攻撃部隊が予想外の激しい抵抗にあい、所期の効果が上げられなかったため、総指揮官の友永大尉が空母赤城の南雲忠一指令長官に「第二次攻撃の要あり」と打電した。まさにこの直後に索敵機からの「敵艦隊発見。空母らしきものを伴う」が到着したので、兵装転換(*3) に時間がかかり、敵空母からの攻撃隊に虚を突かれるかたちになったのである。

  1. 索敵や偵察の失敗。

 敵空母は出撃していないという先入観があった上に、索敵機の敵空母発見が遅れたため、日本側に慢心・油断が広がった。また、空母ヨークタウンは日本海攻撃機の爆撃を受けて、一時炎上したが、迅速な消火・修理によって、作戦から離脱することはなかった。そのため、日本の偵察機はヨークタウンを別の空母と見誤った。(*4)

  1. 作戦目的の不徹底。

 作戦の目的は、ミッドウエー島攻略占領か、敵空母部隊誘出撃滅か、南雲忠一第一航空艦隊司令長官でさえ、よく理解していなかった。 

 このほか、「失敗の本質」の著者(戸部良一氏ほか)は、山本司令長官が戦艦大和に座乗して出撃したことを「錯誤」としてあげている。米国太平洋 艦隊長官ニミッツがハワイから指揮したことと対比しているのだが、ここは説得力に欠けると私には思える。最終局面の艦隊決戦に備えての大和出撃と主張する論者もいる。無線封止のため、適切な作戦指導ができなかったという指摘もあるが、無線封止はハワイにいるニミッツも同じであろう。私は、通信機の性能や呉―ミッドウエーの電波伝播の状況を考えて、旗艦大和は出撃したと考える。(*5)

 いずれにせよ、当時最大最強、文字通り超弩級戦艦である大和はついに一発の砲弾を発することもなく、日本へ逃げ帰ったのである(*6)。

 さらに、4月18日の東京初空襲の問題がある。ミッドウエー海戦の約一か月前に、米空母ホーネットから飛び立った、ジョン・ドゥーリトル大佐が率いる16機の爆撃機が、東京をはじめ、横浜、横須賀、神戸などを爆撃した。皇居のある首都東京を爆撃されたことは、大日本帝国の戦争指導者たちを震え上がらせたに違いない。この問題に関しては、ミッドウエー作戦は4月の初めにはできていたので、東京空襲の影響はないという実戦参加者の証言もある。だが、当初の作戦がどのようなものであったか示す資料はないし、それが変更・修正されなかったという証言もない。「畏れ多いことだ。二度とこんなことがあってはならぬ」という恐れと焦りが作戦全体に影を落とし、無理が生じたことは十分に考えられるであろう。 

(*1) この本で山本五十六が出撃前に新橋の芸者を伴って呉に赴いたことを知って、私は唖然とした。これが気の緩みでなくて、何であろう(職業を貶めているのではない)。山本五十六を描いた映画はたくんあって、誠実な人柄を描くのをねらいとしているが、どれもみなこの事実を隠している。

(*2) この本では、連合艦隊司令部主席参謀黒島亀人に関する記事が興味深かった。たとえば、「敵機動部隊らしきものがミッドウエー方面で行動を起こした兆候がある」と大本営海軍部から電報が入ったときに、山本が「南雲機動部隊に知らせる必要がないか」と問うたのに対し、黒島は「電報の宛先に南雲機動部隊も入っているから、その必要はないでしょう」と答えた。味方の情勢を敵に察知されるのを防ぐための無線封止を考慮してのことだが、航空母艦は飛行機の発着を最優先する設計であるから、アンテナが低い。この電報は機動部隊の旗艦赤城に届かなかったのが事実である。黒島は戦後、「私の生涯での大きな失策の一つである」と述懐したという。

(*3) 攻撃機の装備を陸上攻撃用の爆弾から空母攻撃用の魚雷に転換すること。ミッドウエー基地からの攻撃隊が放った魚雷を避けるため、連合艦隊の空母は蛇行を繰り返し、艦が動揺していたので、作業に時間がかかったという。

(*4) ミッドウエー海戦の一週間前の珊瑚海海戦において、このヨークタウンは日本機の爆撃により炎上、燃料漏れの損傷を受け、数か月かかるといわれた修理をわずか二日の突貫工事で仕上げて戦列復帰したのだった。危機管理という思想は、アメリカではこの時代に普及していたと見るべきであろう。なお、この珊瑚海海戦は、艦船や航空機の損害だけから見れば、日本の圧勝であったが、主目的のポートモレスビー攻略ができなかったことは、日本の敗北とみなさなければならないのである。

(*5) あるいは、うがった見方をすれば、必勝を信じていたわけだから戦艦大和の威容、偉業を世界にみせつけるためだったとの見方もできる。

(*6) 二年後のレイテ戦における戦艦大和の不可解な行動も考慮されたい。この戦艦を建造するために、日本国民、植民地朝鮮、台湾の人々はどれほどの重税にあえぎ、苦しい生活を強いられたことだろうか。

 

  少年時代、何も知らずに戦艦大和や武蔵の模型を作っていた反省をこめて

 これを書き残す。