ジェームス・ボールドウィン「頭のすぐ上に」抄訳(3)DELLベーパーバツクP35  

  「お父さん、話したいことがあるんだ」トニーがこれを言う一瞬前に、彼が長い間求めつづけ、私が逃げつづけたときがきたと理解した。私はオンザロックウイスキーをすすって言った。「いいよ」。

 トニーは彼の大きな手に目をやり、しゃがんで大きな足を抱えた。私は成長した息子に抑えようのない愛情がこみあげてくるのを感じた。

 ちょうどこのとき、キッチンのほうで物音がしたので、彼は大人びた表情で私を見て言った。「ちょっと外で話そうよ」

 二人でドアに向かって歩きながら、私は「トニーと僕は庭を散歩してくるよ」と大きな声で知らせて外に出た。焼肉とスパイスの香りが漂ってきて、雨上がりの大地の匂いがした。二人とも何も言わずに前庭に出た。レンガの階段を越え,車のところで互いに向き合った。

 「アーサーおじさんって、どんな人だったの?」

 「あらたまって何だね。知ってるじゃないか」

 「僕はまだ小さかったんだ。何も知らないよ」

 「何を聞きたいんだ?」

 「学校の友達がおじさんのことを話すんだ」

 私はウイスキーを持ってくればよかったと思った。

 「何て言ってる?」

 「おじさんのこと、ゲイだって言ってる」

 トニーはまっすぐに私を見た。どこかで犬が吠えたようだ。金切り声で子供を呼ぶ女の声が聞こえた。まるで無限の世界に突入するような猛スピードで車が走っていった。

 「そうか――アーサーおじさんのことでいろいろ聞かされているわけだ」

 「それでお父さんに聞きたいんだよ」

 「おじさんは――大勢の人に――」

 「そんなことじゃないんだ」

 「わかった。アーサーおじさんは私の弟だ。いいね。私はおじさんを愛していた。わかるね。彼はとても――孤独――だった。彼は人とは違った生き方をしていた。彼はとても偉い歌手だったからね」

 トニーは私から目をそらさなかった。

 「多くの男が彼――アーサーおじさん――を愛した。こう言ってよければ、愛してると思い込んでいた。お前のおじさん――アーサー――を愛した男を二人知っている」

 「そのうちの一人がジミーなんだね」グサリときた。

 「ジュリアの弟かね」

 「そうだよ」

 南無三。「そうだ」

 

エリック・ドルフィ論集②「アザー・アスペクツ」(ライナーノーツ翻訳)

OTHER  ASPECTS

エリック・アラン・ドルフィが、アフロアメリカン・ミュージックの発展の歴史の中で占める高い位置は、1964年6月24日の彼の死の後もゆらぐことはない。彼の影響は、この地球上のすみずみの、あらゆる分野の芸術家におよんでいるのである。

 エリックの音楽はアフロアメリカン・ミュージックを志す芸術家達の精神的なよりどころであるばかりでなく、研究や練習が不十分で、この音楽がもつ深みを理解できない彼らに対し、尻を蹴りあげるような激励にもなっている。芸術家は過去と未来の両面にわたって責任がある、ということをエリックはよく知っていた。彼は探求を進めるうちに、ピグミー族の音楽の、時空を超えた美しさにまでさかのぼっていった(私は、彼がオクターブ変換を頻繁にやるのは、ピグミー族の声域転換にヒントを得たのではないかと思っている)。彼の音楽にひそむ、叫び、呻き、すすり泣きは、エリス島からはなく、悪臭のたちこめる奴隷船の船底に押し込められてやってきた最初のアフロアメリカンの夢と希望につながるものである。

 彼の音楽には、何か人に語りかけるものがあるが、それはさかのぼれば西アフリカの言葉の響きであり、ゴスペルソングやブルースの中に織りこまれたものと同じであるといえよう。人間の魂にじかに訴えかけ、しかも信じられないような複雑な音楽性と、みごとなバランスを保っているのはそのためである。アンドリュー・ホワイトがエリックのソロをコピーしたものをくわしく調べればはっきりするが、チャーリー・パーカーが開拓したリズムがエリックのスタイルの基礎になっている。エリックのソロには、いたるところにチャーリー・パーカーの影響がみられる。

 一例として、ヘイリー・スミス作曲「フェザー」のエリックの演奏と、チャーリー・パーカーの「ドナ・リー」との類似を指摘しておこう。しかし、他の偉大な芸術家と同じく、パーカーの影響というのも、言語が進化するのと同じように、変化し、拡張されるものである。

 これまであまり問題とされなかった点は、セロニアス・モンクがエリック・ドルフィにあたえた影響である。音について、独特の深い境地に達していたモンクは、ピアノの全音域を使って演奏している。エリントンもそうだが、モンクのフレーズは3オクターブ、4オクターブにわたることもめずらしくない。それぞれの音域の音色が、リズムの面からもまた感性の面からも、モンクのめざしているものと強く結ばれているのである。あいまいな言葉だが、しばしば《角(カド)のある》プレイといわれるモンクと同じ特徴が、エリックの奏法にもあるのだ。 エリック・ドルフィがバスクラリネット、アルトサックス、フルートを演奏する超絶技巧については、すでに多くのことが書かれている。私の考えでは、彼の経歴からみて、バスクラリネットとフルートは同列に論じら

れるものではない。エリックのフルート・ソロのコピーをみると、最高に難しいとされるフルート協奏曲もやさしくみえてしまうほどである。それほどの技巧が、本CDの「インナーフライト#1」では、深い叙情性をたたえて発揮されている。この叙情性を支えているのは、彼がレコーディング活動のなかでみがきをかけた、フルートの音色そのものである。バスクラリネットは、ハリー・カーネイやストラビンスキーがオーケストラにとりいれているのが有名であるが、そのほかはあまり例がない。バディ・コレットによれば、エリックは50年代のなかばに、マール・ジョンソンと一緒に1年くらいバスクラリネットを研究したそうである。マールはそのころ、マウスピースを改良してサックスに近い音を出すのに成功していた。ドルフィはまったく新しい楽器と思えるほどに、機能性を高め、音域を広げたのである。彼の才能が6車線の高速道路のように広大であることの証である。また、「ドルフィN」でのアルトサックスのみごとさは、ただた

だ驚嘆の一語につきる。エリック・ドルフィが操るバスクラリネット、アルトサックス、フルートは、それぞれが独白の個性を発揮しているところが、他の管楽器奏者の追随を許さないところである。

 エリックは、さまざまなジャンルの音楽に幅広い関心をもっていたと、バディ・コレットはたびたび私に話してくれた。エリックが世界の民族音楽を研究していたのは、いろいろな本に書かれている。このCDに収録されている「インプロビゼーション・アンド・テュクラス」は舞踏家のドリッド・ウィリアムズに依頼されたものである。タブラを演奏しているジナ・ラリは、この曲を収録した時の、エリックの楽しそうな様子を話してくれた。エリックは、北インディアンの民族音楽を集大成するプランを、ラビ・シャンカールと話しあったこともある。「ジム・クロウ」のなかのある部分に、日本の雅楽の影響を感じとる人もいるかも知れない。

 エリック・ドルフィは、わずか36年の生涯で、この地球上に巨大な足跡を残した。アフロアメリカン・ミュージックが演奏される限り、彼の影響力は失われることはないであろうと、私は信じる。

                       ジェームズ・ニュートン

                  カリフォルニア州サン・ペドロにて

 

 このCDのもととなったテープは、エリックが1964年に、チャーリ一・ミンガスと、ヨーロッパツアーに出発するときに、親友のヘイル・スミス、ジャニタ・スミス夫妻に預けたものである。エリックが1964年6月24日ベルリンで亡くなったあと、ヘイル・スミスがこのテープのことをエリックの両親に話したところ、しばらく保管しておいてくれと頼まれた。テープはスミスのスタジオで22年間眠っていたのである。

 

 1979年に私がスミスの家を訪れたとき、彼はテープのことを思い出し、「ジム・クロウ」を聞かせてくれた。私は、その深い音楽性と、エリックのディスコグラフィに載っていないことに大きな衝撃をうけた。

 

 1985年、南カリフォルニア大学でエリック・ドルフィ・メモリアルコンサートが開かれたとき、エリックの両親にお会いできて大変うれしかった。その後、母親のサディさんと、ヘイル・スミスとブルーノートの協力で、エリック・ドルフィを愛するわれわれのために、CD化が実現した。なお、1960年11月の3つの作品は、オリジナル・テープにはタイトルがなかったので、ヘイル・スミスがつけたものである。

                           ジェームズ・ニュートン

 

ジェームス・ボールドウィン「頭のすぐ上に」

【あらすじ―3】

  ホールとジュリアは、彼女が教会から離れたのちに愛し合った過去がある。そのジュリアの家でバーベキューパーティーがあり、ホールは家族を連れて参加する。ダンスが終わって、息子のトニーが「話がある」というので二人だけで家の外で話すことにする。

エリック・ドルフィ論集①「エッセンシャル・エリック・ドルフィ」(ライナーノーツ翻訳)

THE ESSENTIAL ERIC  DOLPHY

  エリック・ドルフィと同時代にロサンゼルスで育ったわれわれは、レコーディングから遠ざかっていたころの彼のことをよく覚えている。彼の最初のレコーディングは1949年、「ロイ・ポーターと17ビバッパー」のメンバーのときだった。二度目は1958年、チコ・ハミルトン・クインテットにいたときである。その間の9年間、彼は練習熱心で、ときたま鳥たちとジャムセッションをやる才能豊かな演奏者として認められていた。両親が作ってくれた裏庭のスタジオのそばでフルートを吹いていると、鳥たちが彼に話しかけ、彼はそれに答えるのだった。「オルフェと牧神」あるいは「西36番街のバンビ」みたいな話だと思う人もいるだろうが、ドルフィは故ドン・ミッチェルにこんなことを言っていた。「鳥たちは僕たちの音程の間の音をもっているよ。真似をしてみると、これがFとF#の間の音なんだな。だから、ピッチを上げるか下げるかしなくちゃならない。インディアンの音楽にも似たようなころがある。異なった音階と1/4音だ。君はどう思うかしらないが、僕は面白いと思うよ」。ドルフィの先生だったロイド・リースが、彼に鳥のさえずり、動物の鳴き声、人の話の中に音楽を聞きなさいと教えた。エリックはそれを実行していたわけだ。チャーリー・ミンガスもリースに音楽を学んだことがある。

 1954年の冬、ニューヨークに向かったドルフィは、ロサンゼルス出身のミュージシャンたちにあたたかく迎えられた。ミンガスをはじめ、ドン・チェリー、ドン・エリス、スコット・ラファロ、ジミー・ネッパー、チャーリー・ヘイデンジム・ホールオーネット・コールマンらがいた。プレスティジのニュー・ジャズ・シリーズのレコーディングから、1964年のベルリンでの客死までの間に、エリック・ドルフィはソロからオーケストラとの共演まで、幅広い活動を行った。ミンガスの最良の理解者であり、驚異的な練習量の成果と、情熱と、好奇心と、威厳と諧謔と4つの楽器の技巧を作品に表現した。このCDは、その彼の芸術のエッセンスを集めたものである。

 収録中5曲はアルトサックスの曲である。そのうち2曲がロサンゼルスの友人に捧げられている――ジェラルド・ウイルソン(“G.W.”)は一緒にバンドをやっていた仲間であり、レスター・ロバートソン(“Les”)はLCAA時代のクラスメイトであり、「エリック・ドルフィとモダンリズム」でクラブ・オアシスに出ていた。“The Meetin’”という曲には、ハンプトン・ホース牧師のコーラスメンバーだったころの思い出がこめられている。(ハンプトン・ホース・ジュニアは、日曜日にはピアノの練習があるからといって、教会に出ないで家にいることが多かった)。“Feathers”――この語はもともと単数で表記されていた――では、ドルフィの美しいバラードが聞かれる。この曲は、ヘイル・スミスが、チコ・ハミルトンのバンドにいたころのドルフィのためにフルートの曲として書いたものである。フェザーという言葉から、レナード・フェザーやバード(チャーリー・パーカーを)連想するが、作曲者自身は「ただ曲のタイトルにふさわしいと思っただけさ」と言っている。9曲目の“Status Seeking”では、ドルフィとブッカー・アービンとマル・ウオルドロン――ミンガス時代の仲間3人が顔をそろえた。

 5曲目の“Eclipse”は、ビリー・ホリデイのためにチャーリー・ミンガスが書いた曲であるが、ミンガス以外のバンドで演奏されたのは多分これが最初であろう。ここでは、ドルフィはEクラリネットを吹いている。“Feathers”と“Eclipse”でのエリック・ドルフィとロン・カーター(チェロ)のサウンドはチコ・ハミルトン時代の二人を思い出させる。

 バスクラリネットの技巧では、ドルフィの右にでる者はいなかった。本CD中2曲にそれが入っている。ミルト・ジャクソン作曲の“Ralph’s New Blues”は、サンフランシスコの作曲家今は亡きラルフ・J・グリースンのために書かれた曲であり、ジャッキー・バイヤードの“Bird’s Mother”は、トランペットのブッカー・リトルとの初共演であった。

 ジャッキー・バイヤードの“Ode to Charlie Parker”では、ドルフィはフルートを吹いている。ジェームズ・ニュートンは、最近私にこんな話をしてくれた。「過去から現在まで、フルート奏者の数は多いが、エリックが最高だ。彼は、コールマン・ホーキンスがテナーサックスのスタンダードを作ったのと同じように、フルートのスタンダードを作ったのだ。そして、そのスタンダードに近いところまでいった者はだれもいない」

 エリック・ドルフィが本CDに収録のレコーディングをおこなってから、30年がたってしまった。私は最近、ドルフィの友人だったヘイル・スミスとドルフィの思い出を語り合ったことがある。そのとき、私はこんなことを話した。「エリック・ドルフィが操る楽器は、それ自体が素晴らしい歌となる可能性があった。高く舞い上がり、低く舞い降り、風にただよって。けれども、水かきのついた足があって、鶏のようにコッコッと鳴いたり、家鴨のようにガアガア鳴いたり、彼がちょっと目をそらすと、チョコチョコ歩きだしたりする。彼がバスクラリネットの長いネックをつまみあげると、まるで白鳥が泳いでいるようだったなあ」。

 スミスはじっと聞いていたが、最後にこう言った。「僕が初めてエリック・ドルフィを聞いたのは、チコ・ハミルトンのところにいたときだったが、あんなに猛スピードでクリーンな演奏は聞いたことがなかった。フライパンの上のガラガラへびみたいだった」。

 これ以上のたとえはあるまい。

                          ウイル・ソーンバリイ