エリック・ドルフィ論集②「アザー・アスペクツ」(ライナーノーツ翻訳)

OTHER  ASPECTS

エリック・アラン・ドルフィが、アフロアメリカン・ミュージックの発展の歴史の中で占める高い位置は、1964年6月24日の彼の死の後もゆらぐことはない。彼の影響は、この地球上のすみずみの、あらゆる分野の芸術家におよんでいるのである。

 エリックの音楽はアフロアメリカン・ミュージックを志す芸術家達の精神的なよりどころであるばかりでなく、研究や練習が不十分で、この音楽がもつ深みを理解できない彼らに対し、尻を蹴りあげるような激励にもなっている。芸術家は過去と未来の両面にわたって責任がある、ということをエリックはよく知っていた。彼は探求を進めるうちに、ピグミー族の音楽の、時空を超えた美しさにまでさかのぼっていった(私は、彼がオクターブ変換を頻繁にやるのは、ピグミー族の声域転換にヒントを得たのではないかと思っている)。彼の音楽にひそむ、叫び、呻き、すすり泣きは、エリス島からはなく、悪臭のたちこめる奴隷船の船底に押し込められてやってきた最初のアフロアメリカンの夢と希望につながるものである。

 彼の音楽には、何か人に語りかけるものがあるが、それはさかのぼれば西アフリカの言葉の響きであり、ゴスペルソングやブルースの中に織りこまれたものと同じであるといえよう。人間の魂にじかに訴えかけ、しかも信じられないような複雑な音楽性と、みごとなバランスを保っているのはそのためである。アンドリュー・ホワイトがエリックのソロをコピーしたものをくわしく調べればはっきりするが、チャーリー・パーカーが開拓したリズムがエリックのスタイルの基礎になっている。エリックのソロには、いたるところにチャーリー・パーカーの影響がみられる。

 一例として、ヘイリー・スミス作曲「フェザー」のエリックの演奏と、チャーリー・パーカーの「ドナ・リー」との類似を指摘しておこう。しかし、他の偉大な芸術家と同じく、パーカーの影響というのも、言語が進化するのと同じように、変化し、拡張されるものである。

 これまであまり問題とされなかった点は、セロニアス・モンクがエリック・ドルフィにあたえた影響である。音について、独特の深い境地に達していたモンクは、ピアノの全音域を使って演奏している。エリントンもそうだが、モンクのフレーズは3オクターブ、4オクターブにわたることもめずらしくない。それぞれの音域の音色が、リズムの面からもまた感性の面からも、モンクのめざしているものと強く結ばれているのである。あいまいな言葉だが、しばしば《角(カド)のある》プレイといわれるモンクと同じ特徴が、エリックの奏法にもあるのだ。 エリック・ドルフィがバスクラリネット、アルトサックス、フルートを演奏する超絶技巧については、すでに多くのことが書かれている。私の考えでは、彼の経歴からみて、バスクラリネットとフルートは同列に論じら

れるものではない。エリックのフルート・ソロのコピーをみると、最高に難しいとされるフルート協奏曲もやさしくみえてしまうほどである。それほどの技巧が、本CDの「インナーフライト#1」では、深い叙情性をたたえて発揮されている。この叙情性を支えているのは、彼がレコーディング活動のなかでみがきをかけた、フルートの音色そのものである。バスクラリネットは、ハリー・カーネイやストラビンスキーがオーケストラにとりいれているのが有名であるが、そのほかはあまり例がない。バディ・コレットによれば、エリックは50年代のなかばに、マール・ジョンソンと一緒に1年くらいバスクラリネットを研究したそうである。マールはそのころ、マウスピースを改良してサックスに近い音を出すのに成功していた。ドルフィはまったく新しい楽器と思えるほどに、機能性を高め、音域を広げたのである。彼の才能が6車線の高速道路のように広大であることの証である。また、「ドルフィN」でのアルトサックスのみごとさは、ただた

だ驚嘆の一語につきる。エリック・ドルフィが操るバスクラリネット、アルトサックス、フルートは、それぞれが独白の個性を発揮しているところが、他の管楽器奏者の追随を許さないところである。

 エリックは、さまざまなジャンルの音楽に幅広い関心をもっていたと、バディ・コレットはたびたび私に話してくれた。エリックが世界の民族音楽を研究していたのは、いろいろな本に書かれている。このCDに収録されている「インプロビゼーション・アンド・テュクラス」は舞踏家のドリッド・ウィリアムズに依頼されたものである。タブラを演奏しているジナ・ラリは、この曲を収録した時の、エリックの楽しそうな様子を話してくれた。エリックは、北インディアンの民族音楽を集大成するプランを、ラビ・シャンカールと話しあったこともある。「ジム・クロウ」のなかのある部分に、日本の雅楽の影響を感じとる人もいるかも知れない。

 エリック・ドルフィは、わずか36年の生涯で、この地球上に巨大な足跡を残した。アフロアメリカン・ミュージックが演奏される限り、彼の影響力は失われることはないであろうと、私は信じる。

                       ジェームズ・ニュートン

                  カリフォルニア州サン・ペドロにて

 

 このCDのもととなったテープは、エリックが1964年に、チャーリ一・ミンガスと、ヨーロッパツアーに出発するときに、親友のヘイル・スミス、ジャニタ・スミス夫妻に預けたものである。エリックが1964年6月24日ベルリンで亡くなったあと、ヘイル・スミスがこのテープのことをエリックの両親に話したところ、しばらく保管しておいてくれと頼まれた。テープはスミスのスタジオで22年間眠っていたのである。

 

 1979年に私がスミスの家を訪れたとき、彼はテープのことを思い出し、「ジム・クロウ」を聞かせてくれた。私は、その深い音楽性と、エリックのディスコグラフィに載っていないことに大きな衝撃をうけた。

 

 1985年、南カリフォルニア大学でエリック・ドルフィ・メモリアルコンサートが開かれたとき、エリックの両親にお会いできて大変うれしかった。その後、母親のサディさんと、ヘイル・スミスとブルーノートの協力で、エリック・ドルフィを愛するわれわれのために、CD化が実現した。なお、1960年11月の3つの作品は、オリジナル・テープにはタイトルがなかったので、ヘイル・スミスがつけたものである。

                           ジェームズ・ニュートン