あのころのジャズ

 あのころというのは、ジョン・コルトレーンとエリック・ドルフィが活躍し、植草甚一さんがスイングジャーナル誌に健筆をふるっていた1960年代のことだ。古い話だが、甚一さんの「ジャズの前衛と黒人たち」(晶文社1967年5月)に、「エリック・ドルフィの死と『ジャズの十月革命』」という題のエッセイがあり、エリック・ドルフィの痛ましい最期のようすが描かれている。

 1964年6月27日、ベルリンの新開店のジャズクラブ「タンジェント」に出演中、最後の回は糖尿病の悪化による衰弱のため、ステージに上がれなかった。急遽アッシェンバッハ病院に搬送したが、翌日、心臓発作を起こして死んだ。36歳だった。甚一さんは「こんな死にかたをするなんて、黒人だからなおさら信じられない」とわかりにくいことを書いている。黒人であるがゆえに、職場やギャラや医療――もろもろの差別を受けて満足な治療が受けられなかったのだ。

 私がライナーノーツを翻訳した「エリック・ドルフィ論集⑤ファイブスポットvol.1」にアルト部門の新人賞を獲得したときのインタビューに対するエリックの答えが出ていた。そこでは、不協和音に関する彼の持論を述べているが、当時私が読んだダウンビート誌のインタビューでは、「少しは生活が楽になるだろうか」と答えていたことを忘れることができない。

 十月革命というのは、1964年11月1日から4日まで行われたイベントで、これを契機にセシル・テイラーアーチー・シェップらがジャズの前衛運動を推進したエポックメイキングな事柄を指すのだが、エリック・ドルフィの死後のことであり、ドルフィとの関連については甚一さんは触れていない。

 ついでながら、このエッセイの最後のほうにジェームズ・ボールドウイン、マルコムX、リロイ・ジョーンズ三者の関係が少し書いてあって興味深い。「アメリカで一番マークされてしまう人間はホモだ」とリロイ・ジョーンズは言っている。こんなところからも、黒人でホモのボールドウインが、我々には想像も及ばない困難な状況を生きたことがわかるのである。