翻訳小説 グレアム・スイフト「ヒポコンデリア」1
その日のことは二つのことで覚えている。九月半ばの日差しの強い日だった。 すべてがすっきりとして鮮明で、 もう秋だった。
一つは、その日の朝に私は妻の妊娠を知った。妻がよこしたサンプルを私が病院に持っていった。 医師の私が妻のサンプルを病院に持っていくのは変かもしれないが、私は研究室のマッキンリーに「妻のだけど、 待っているから頼む」と言って手渡した。 しばらくして、彼はもどってきて「陽性だよ」と言った。こんなことをする前に、妻にはわかっていたことだろう――往々にしてこうしたときの女性の直感は正しいものだ。二人にとって喜ぶべきことであるはずだった。家でサンプルを受け取ったときに、その直感の先を聞きたいと思って、しばらく彼女を見ていた。まぷしい太陽の光がキッチンに射し込んでいた。彼女が背中を見せてしまったので、私は彼女の頭に軽くキスをした。不幸な赤ん坊へのキスのつもりだった。 「おめでとう」とマッキンリーは言ってくれたが、何かとってつけたような響があった。
もう一つは, 私が初めてMに会った日だった。彼は夕方の診察時間の最後の一人だった。 彼が入ってくるなり、一目見てうさんくさいやつと感じた。 彼は、順痛がして、 背中や胸にもぽんやりした痛みがあると私に話した。やせ型で、もの静かな、だるそうな二十歳くらいの男だった。
「どんな痛みかな」
「刺すような痛みです」
「今も痛むの」
「はい、いつもなんです」
「刺すような痛みをいつも感じるか――」
私は聴診器で胸の音を聴き、脈をとり、そのほか彼が満足しそうな診察行為をいくつか行ったあとで言った。「まったく問題ないよ。肉体的にはまったく健康です。何か心配事でもあるのかな。 その痛みというのは、 空想的なものなんだよね。空想もいき過ぎると本当の痛みのように感じることがある。 だけど、どこか悪いというわけじゃないんだ」。私は丁寧に説明した。「もう帰ってくれ」と言いたかった。 診察を終えて一人になりたかったのだ。私は立ち上がって出入り口のドアを開けた。彼は青白い生気のない顔で私の後についてきたが、ドアのそぱまでくると私を見て言った。 「先生、本当に痛むんです」。あまりに真剣な表情だったので、私は急いで言ってしまった。 「まだ心配なら来週いらっしゃい」。こんなことを言うべきではなかったのだ。
彼は待合室を抜けて砂利道を歩いていった。
サンプルを受け取ってから妻の顔を見ていなかった。病院からは電話をしておいた。「陽性だよ。おめでとう」と言ったとき、私がマッキンリーに対してとった態度が電話の向こうで見えるようであった。 彼女は言った。 「わかってるわ」そのあと私は病院で放射線技師と会議があり、 午後に往診が何件かあったので、 帰ると家に入らず診察室に直行したのだった。いつもそうなのだ。私の診察室と待合室は住まいと別棟になっていて、お互いにはっきりと相手の領域とみなしていた。妻は私の診察時間が終わっても診察室に入ってくることはなかったし、その日は特にドア一枚隔てられた向こう側の我が家より診察室のほうが気が休まる感じがした。