芥川龍之介「支那游記」について

芥川龍之介支那游記」について

1921年(大正11年)、29歳の芥川龍之介が、大阪毎日新聞の特派員として上海を訪問・取材したときに、三人の人物と面談した。章炳麟、鄭孝胥、李人傑である。このような場合、新聞社の依頼によりだれかが人選するのだろう。だれがお膳立てしたかわからないが、よく考えてみると、なかなか傑作だ

 まず章炳麟――この人は孫文、黄興と並んで革命三尊と称せられているが、前の二人が政治家、軍人であるのに対し、華厳・法相と老子荘子を革命の基本にすえる思想家である。深遠な東洋思想が辛亥革命にどう生かされたかを知るには、私はまだまだ勉強不足であると認めよう。

 若き日に東京で章炳麟の講演を聞いた魯迅は、自身の死の十日前に次のように書いた。

 「先生の革命史上に残した業績は、実は学術史上の業績よりももっと大きいと私は思う」

 二人目は、芥川も書いているとおり、「大清帝国の遺臣である」。辛亥革命により清朝滅亡となったが、宣統帝溥儀は愛新覚羅溥儀となり、各種の優待条件を与えられて紫禁城にとどまった。この間、人員・資産整理、残務処理にあたったのが鄭孝胥だ。

 清室優待条件を反故にして、溥儀を紫禁城から追放したのは馮玉祥である。話は四年ほどさかのぼるが、皇帝の夢破れた袁世凱が死ぬと、北京は次の政権をねらう軍閥抗争の場となった。張作霖が率いる軍隊は、奉天に拠点を置いたので奉天派と呼ばれ、段祺瑞は安徽派、曹錕は直隷派であった。南方の広東に拠点を置く孫文蒋介石から見れば、すべて北方軍閥であり「北伐」の対象なのだ。

 安直戦争、第一次奉直戦争、第二次奉直戦争と続くなか、溥儀の運命を大きく左右したのが第二次奉直戦争で、直隷派の馮玉祥がクーデターにより指導部の曹錕・呉佩孚を失脚させ、溥儀を紫禁城から追放した(北京政変)。 

 紫禁城を出た溥儀は、上海租界―天津租界―満州と転々とするが、

鄭孝胥は溥儀に付き従い、満州国皇帝となった溥儀のもとでは首相に当たる国務院総理に就いている。芥川が鄭孝胥に会ったとき、溥儀は紫禁城内で過去の栄華の浅い夢にまどろんでいたかもしれない。芥川はこの主従のその後の転変を知るよしもないが、「遺臣」より「忠臣」のほうがふさわしい気がする。

最後の李人傑は、三人の中では最も若く、当時の芥川より一つ下の28歳である。さぞかし話が弾んだであろうといいたいところだが、章炳麟、鄭孝胥のように書画が巧みであるわけでなく、筆をとればもっぱらプロパガンダである。芥川の心中穏やかならざるものがあったであろう。取材ノートの李人傑の部分が蕪雑であることに気づき、「当時の心もちは或いは蕪雑なところに反ってはっきり出てゐるのかも知れない」と書くのは、そのことを指すのだろう。芥川との対談が行われた三カ月後に、まさにこの李人傑の自宅で歴史的な中国共産党第一回大会が行われた。芥川がこのことに触れて書いた文章を私は寡聞にして知らない。

 清朝最後の皇帝の忠臣と、その清朝を滅亡に追い込んだ辛亥革命の指導者と、その辛亥革命の結果生まれた中国国民党を超克せんとする中国共産党のリーダー……期待に胸をふくらませて(結果的に幻滅感が強かったようだ)上海の地を踏んだ芥川の対談相手としてこの三人を選んだのはだれか、知りたいものだが、傑作だと私が冒頭に述べたのは、以上の理由による。

 日本の人気作家芥川龍之介29歳は、この三人を結ぶ太い糸が見えたであろうか。

                                    (了)