短篇小説「浜辺にて」

 

短篇小説「浜 辺 に て」
      八月の終わり、海も荒れる日が多くなり、くらげが増える。泳いでいると、一瞬太腿あたりを何かが掠め去って、痛みを感じる。慌てて海から上がると、痛みを感じたところがピンク色に腫れ上がっている。そして、夏も終わりだという寂莫とした気持ちが文字通り実感として湧いてくるのだ。私は夏の盛りよりもむしろそんな頃が好きだ。
 私の家では七月の中旬、学校が夏休みに入る少し前から海岸で貸しボートの営業をするが、くらげが出る頃になると、ボートもすべて倉庫に入れてしまうので、ただすっかりみすぼらしくなった葦簾(よしず)張りの海の家がゆがんで立っているほかは何もない。
 私は浪人中、予備校の夏期講習が終わって秋期講習が始まるまでのほぼ一週間を、故郷の海辺の家で過ごした。そして、毎日日暮れ時になると、砂浜を洗う潮の響きに誘われるように下駄を突っかけて海岸へ下りて行き、祖父が海の家の中に板を渡して作った腰掛に腰を下ろして、シーズンを終えた海水浴場のもの寂しい雰囲気にひたっていた。
 その葦簾張りの海の家は、夜になると恋人達の逢引の場となっていた。彼らは話をしながら葦をむしるらしく、葦簾を作っている葦の中に満足なものは一本もなく、みんな腰掛のあたりで折られたり割られたりしていた。内部の褐色の皮膜がほそぼそと風に揺れているのにも、ひとしお秋の気配が感じられた。
 沖では紺碧の波が高く盛り上がり、その頂点に白波が立ちはじめたかと思うと前にのめりこみ、崩壊して白波になる。それが後から後から際限なく続くのだ。手前の防波堤では、一定の間隔で波が打ちつけ、飛沫(しぶき)飛沫が花火のように夕日に打ち上げられる。幅二メートルほどの防波堤では、子供たちの歓声が上がっている。防波堤を乗り越える大波に足をとられまいと我慢くらべをしているのだ。大きな波がくると、反対側にころげ落ちる子供がいる。子供達の歓声を交えて、丘の上の松林ではひぐらしが華麗な合唱をし、海では潮騒が繊細な調べを奏でる。私は自然の音楽会の特別席にでもいるような気持ちでそれに聴き入っていた。
 そのとき、和服を着た一人の婦人が私の前を通りながら私に会釈をした。私も頭を下げたが、さて誰なのか、まるで覚えがなかった。葦簾の隙間から見ていると、その婦人は、波がひたひたと打ち寄せる岸壁の突端に行き、腰を下ろして手に持った花束を置いた。そしてしばらく目をつむって合掌していたが、やがて目をあけて、手を合わせたまま海の一点をじっと見つめていた。突然、私は彼女が見つめているその場所から、
「あったぞ、あったぞ」
と叫んでいる私自身を見た。
 それはちょうど五年前、私が中学二年の夏休みのことだった。私がボートのあか汲みを終わって海の家にもどると、その婦人が私の祖父に何か真剣に頼み込んでいた。それまでの話の経過は、あとで聞いたところによるとこうらしい。
 婦人の小学五年になる子供が、近所の一級下の友達とこの浜に泳ぎにきた。いつも帰る時間はとっくに過ぎたというのに、まだ帰らない。何となく胸騒ぎがして、その友達の家に行ってみると、その子はひとりで帰ってきている。どうしたわけかと問いただすと、××ちゃんがいなくなったので、先に帰ったのかと思ってひとりで帰ってきたというのだ。さあ、大変だ。彼女は真っ青になって駆けつけたばかりだった。
 彼女は、
「だいたい、ここと向こう岸を行ったり来たりして泳いでいたそうなんです。
どうかお願いします」
 と、指で示して必死だった。
「正人、おめえ捜してみろ。おれは若いもんを誰か呼んでくるから」
 祖父は私にこう言って走りだした。
 私は水中めがねをつかむなり、助走をつけて勢いよく海に飛び込んだ。浮き上がって顔の水を払い、めがねをつけた。
 婦人の指示したあたりは、こあまもが密集していて不気味だ。今にも何か怪物が出てきそうな気がする。私は我慢しながら沖の方へ泳いでいった。何も変わったものはありそうになかった。私が引き帰そうかと思ったとき、こあまもの中にちらっと白いものを認めた。どきりとして瞳をこらすと、潮に流されて揺れているこあまもの中に見え隠れするものは人間の白い肌に違いなかった。私はがばっと水面から顔を上げて大声で叫んだ。
「あったぞ、あったぞ」
 ちょうど祖父が知り合いの青年を三人連れてきて、自分はボートに乗って漕ぎ出したところだった。真っ黒に日焼けした漁師の青年は、素晴らしく精力的なクロウルで私のところまで泳いできた。それはあっという間であったが、私は立ち泳ぎしている足を下からつかまれそうで、泣きだしたい気持ちだった。水死人を引き上げようとして前にまわったところが、突然抱きつかれて一緒に死んだという話が真に迫って思い出された。
「この下、この下」
 私は青年の一人に叫んで、自分はまっしぐらに岸に向かってクロウルを始めた。やっとのことで岸にはい上がり、振り返ると、青年が三人がかりで死体の上半身をボートの後部から押し上げ、それを祖父がボートの中に引き入れようとしている。
 やがて死体は海の家の横の砂地に置かれた。こわいもの見たさにのぞいてみると、色は気味の悪いほど真っ白で、口や鼻孔から白濁した液体を大量に流していた。下半身から流れ出す液体で、白い砂が黄色に染まっていた。私はもうそれ以上見る気はしなかった。海底のこあまもに抱かれるように沈んでいた死体は、何か神秘的な美しささえ感じられたが、太陽のもとにさらされてみると、醜悪というほかなかった。
 それから、巡査が駆けつけてきて、死体のそばで焚き火をし、人工呼吸を施したが、だめだった。
「あんなことをやっても、しょうがあんめえ。さかさまに持ち上げて水をはかせんのがいいだ。そいでも、パンツをまくって見たら、もう肛門が開いちまってるから、もうだめだべなあ」
 と祖父が言ったのを、今でも私は覚えている。
 不思議なことに、私は死体が上がってからの、母親の様子を全然覚えていない。死体にとりすがって泣き叫んだという光景は、記憶にないのだ。だれかが彼女を現場から遠ざけたのかもしれない。
 ――彼女は今ようやく立ち上がり、海の家の裏を回って帰ろうとするところだった。私も立ち上がった。沖を見ると、太陽が地平線に接しようとしていた。じっと見ていると、少しずつ重そうに太陽が地平線下に沈んでいくのが、はっきりわかった。もう海岸全体があかね色に染まって、見上げると空にはいっぱいの赤とんぼだ。私はざくざくと砂を踏んで、長くなった自分の細い影を見ながら、夕食時の家の方に歩いていった。