短篇小説「階段」

 あっという間のできごとだった。
 同窓会が終わり、先生と並んで話しながら一階へ降りる階段へ来たとき、先生が足を踏みはずした。先生の体は横になって回転しながら十段ほど落ち、途中の踊り場で止まった。先生はすぐには立ち上がらなかったが、横になったまま私を見上げて少し笑った。見覚えのあるようなその笑顔を見て、私はほっとして階段に腰を下ろした。そんなに大きな音はしなかったと思うが、先に一階に降りた同級生たちが階段を駆け上がってきた。店の責任者らしい男性も駆け上がってきて先生を抱き起こした。そんな光景が映画の一場面のように思い起こされる。私は腰を下ろしたままだった。私はなぜすぐに先生のところに駆け下りて行かなかったのだろうか――。
 私は説明できるような気がする。私が、私たちが先生に教えを受けたのは小学校五、六年のとき、かれこれ六十年前だ。先生は当時二十六、七歳、まさに若さと美貌の絶頂期であった。その後の私の人生で先生ほどに美しい女性は現れなかった。私は先生の体にふれるのが怖かったのだ。
 危険なアクシデントだった。前のめりに倒れて落ちていたら、どうなったことだろうか。途中の踊り場で止まらず、一階まで落ちていったら――。家の中の段差につまづいて重傷を負う人がいる年齢である。生命にかかわる事態になっていたかもしれない。救急車で運ばれて頭のほうの検査も受けたそうだが、一週間程度の足の怪我だけで済んだのは奇跡的といってもいいかもしれない。あるいは先生の反射神経、運動神経、しなやかな体のおかげかもしれない。
 私は高校時代に国語の教科書で読んだ梶井基次郎の「路上」を思い出した。
 ある大学生(ここではKとしておこう)が、学校から家に帰るのにいつも利用しているM駅より一つ前のE駅で降りても同じくらいではないかと気づく。試しにE駅で降りて、およその方角へ歩いていくと、下宿に通じるいつもの道に出た。しかも、この新しい道は友人の下宿にも近いことがわかった。Kはこの新しい道が気に入って、しばしばこの道を通ってE駅を利用するようになる。
 それは雨上がりの午後だった。新しい道の途中には高台があって、見晴らしはいいが、地面がしめっていると滑りやすい。Kは坂道を上がる前からそれを知っていた。上りは何事もなかった。下りになって、ひと足踏み出した瞬間、「自分はきっと滑って転ぶにちがいないと思った。」途端に彼は滑ってしまう。傾斜のゆるいところで彼の身体は停止するが、立ち上がっても歩いてきた道を引き返そうとしない。

 然し自分はまだ引き返そうともしなかったし、立留まって考へて見ようともしなか
 った。

 また滑る。そのまま、ぬかるみの坂道を滑り落ちてゆく。高台からはテニスコートが見えたが、滑り落ちてゆく先は崖になっていて、その下には何があるかわからない。 「非常な速さでその危険が頭に映じた。」とある。幸いKの身体は崖の突端で停止し、崖下に転落することはなかった。転落に対して身構えていた自分を振り返り、それが空振りに終わったときの、はぐらかされたような気持ちの描写は、この短編の魅力の一つである。だが、何といってもこの短編の魅力は、
  
 どうして引き返そうとはしなかったのか。魅せられたよう滑って来た自分が恐ろし    
 かった。破滅というものの一つの姿を見たような気がした。

というところであろう。普通、坂道で転んだぐらいでここまで考えない。しかし、ここまで突き詰めてしまうところが梶井文学の魅力なのだ。
 人間にはこういうところがある。まずいなと思いながら、引き返すことができないで突き進んでしまう。この先どうなるのか、非常に危険な事態が待ち受けているかもしれないのに、かえってそれを楽しみにするような気持ちさえ起きてくるのだ。人生の平穏な日々の中にも、目には見えない深淵が口を開けていて、人間はふとそれを見てしまうことがあるのだ。
 ――というわけで、同窓会のときのアクシデントから始めたこの小文を「階段」と名づけることにする。