ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」あらすじ(40)

ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」あらすじ(40)

   前回の南部公演ツアーでは、ピアニストのピーナットが行方不明になったが、今度は同じピアニストのスコットが警察に逮捕された。アラバマ州モントゴメリーの道路でつばを吐いたというのが警察のいう罪状であるが、スコットが金を持っていなかったので、浮浪罪まで加えられて90日の刑が言い渡された。ホールに言わせれば、「逮捕」ではなく「誘拐」であった。アーサーとホールは保釈金を工面するのに駆け回らねばならなかった。いくつかの黒人教会の任意の寄付だけではとても間に合わなかった。アーサーは音楽事務所に電報を打ち、弁護士を頼んだ。二人はこのとき初めて、弁護士なしで南部にいることの危険性に気づいたのだった。とにかく急いで金をつくって、鎖につながれているスコットを救出しなければならない。一日も無駄にできない。一回の公演もキャンセルできない。アーサーとホールは、ピアニスト抜きで大慌てで次の公演地フロリダに飛んだ。

 フロリダのはずれにある教会の地下におりていくと、そこにジミーがいた。破れたセーターを着て、サンドイッチを食べてたべていたが、すっかりやせ細って、すぐにはジミーとわからないくらいであった。彼は小さいころからゴスペル歌手のアーサーにあこがれて、いつかアーサーの伴奏者になりたいとピアノを練習していたので、見知らぬ土地でスコットの代わりのピアニストを探さねばならないという難題に直面していたアーサーにとっては、まさに渡りに舟、天の助けであった。

 ジミーのおかげで演奏会は成功裡に終了した。スコットを救出してほうほうのていでニューヨークに戻ったホールに、ジュリアから電話があった。

 

ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」抄訳(40)DELLぺーパーバックP504~

ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」抄訳(40)DELLぺーパーバックP504~

(アフリカのアビジャンからニューヨークに戻ったジュリアは、南部に行って空き部屋となったジミーのアパートに滞在することとなった)

 彼女はジミーの残したメモを読んでからバスルームに入り、シャワー水を我慢のできないくらいの温度に上げた。長旅の跡を消すように手早く着ているものを脱いだ。彼女は鏡を見た。アフリカの太陽のせいで肌は黒くなり、髪も荒れていたが、彼女にとっては好ましいことだった。アフリカでの生活で、彼女は何を得て何を失ったのだろうか。まだはっきりと言葉には表せないが、何かを得たことを感じていた。たぶん彼女はそれを確かめるために帰国したのだ。

 浴槽に入浴剤を入れて熱い湯の中に身体を沈めると、感謝の気持ちがわいてきた。粗いスポンジで身体をこすり、頭蓋骨や脳の中の何かを流すように強く髪を洗い、罪を洗い流すように身体全体を洗った。すると、常日ごろ考えていたことが鮮明になってきた。彼女はいつかアフリカの風のないお昼に見た池に浮かぶ木の葉のように、しばらく湯船の中で身体を伸ばしていた。彼女は自分の身体や腰にさわってみた。アフリカでの生活も彼女の体重を増やすことはなかった。それからオイルと香水を全身にぬると、疲労感がやわらいていった。しかし、彼女の孤独感はいつ逃れることができるかわからぬほど根深いものであった。さらに、彼女の美しい容姿が彼女自身を責めるのであった。

 彼女は長い灰色のローブを身にまとい、リビングでドリンクをグラスに注いだ。そして、煙草に火をつけ、ソファに腰をおろし、物思いに沈んだ。

ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」あらすじ(39)

ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」あらすじ(39)

  日曜の午後、ジミーがホールの家を訪ねてきた。ホールの妻と二人の子どもは黒人だけのミュージカル「The Wiz」を観に行って留守だった。ジミーは同性の愛人アーサーとパリで暮らしていたが、そのころ、アーサーは麻薬に手を出してひどい状態だった。パリのミュージックホールで歌っていた環境も悪かったのか、コカイン、ヘロインまでやっていた。ジミーはそれをやめさせようとしていさかいになり、アーサーはロンドンへ行ってしまった。ジミーはアーサーを追いかけてロンドンへ行き、そこから一緒に合衆国へ帰国する計画をたてていた。その前にアーサーは一時帰国して、南部の公演ツアーに出ることになった。兄のホールとしてはマネジャーとしての初仕事だった。

   アーサーは黒人教会や白人大学生の一部に人気はあったが、スターというほどではなく、行く先々の公演で得る金がすべてだった。当時は、売れないゴスペル歌手ではローンもできなかった。金を工面するのがマネジャーの仕事だった。アーサーはコパカバーナやラスベガスには縁がなかったが、サンフランシスコ、オークランド、シアトル、フィラデルフィア、ニューヨーク、ニュージャージー、ボストン――さらにはバンクーバートロントモントリオールから仕事が舞い込んだ。しかし、サバンナ、タラハシーニューオリンズ、バーギンガム、メンフィスなど南部の都市での仕事は難しかった。それは、警察や監獄や足かせの鎖からアーサーを守る術を知らぬ音楽事務所が彼の将来を心配してのことであった。いったん南部に入ったら持って出るものはなく、着の身着のまま手ぶらで出るしかないというのがアーサーの意見だが、兄のホールもまったく同感だった。南部公演ツアーには、手数料ほかの諸経費、食料のほか、もしもの場合の保釈金まで考える必要があった(前出――南部では白人警官が黒人を逮捕するのに理由は要らない)。バンクーバーでの出演料はたいしたものではないが、それでも南部行きの一助にはなったのである。

ジェームス・ボールドウィン「頭のすぐ上に」第五部

           第5部   

           地獄の門

 

     それは私です、それは私です、

   主よ、祈りを必要としているのは私です。

              伝承

 

   このローブが私に似合っているのはわかっています。

   地獄の門の前で来てみました。

               伝承

ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」抄訳(39)DELLぺーパーバックP488~

ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」抄訳(39)DELLぺーパーバックP488~

「間違ったらごめん。2×3が4になるような話だが、君はアーサーじゃないか?」

「そうです」とアーサーは言った。

「お父さんの名前は――ポール?」

「そうです」何が起きたのかわからなかったが、アーサーの顔に自然な微笑が浮かんだ。

「ロンドンから来たばかりなんだろう?」

「ええ、そうです」

「友だちがロンドンにいてね。ゴスペル歌手がこっちに来ると教えてくれたんだ。アーサー……何といったかな――ウイスコンシンだったかな。オクラホマオハイオ?インディアンの土地の名前だったな――チャタヌーガじゃなくて……」

二人は笑い、ガイもつられて笑った。カウンターの向こうの女性も笑った。休憩中のバンドマン、ほかの客も身動きせずに見守っている。

「僕の名前はモンタナですよ」

「そうそう、たしかそんな名前だった。ポールはどうしてる?」

「元気です。子どものころ、父はよくあなたのことを話してくれました」 

「ポールとはよく話をしたよ。彼がまだ若いころからね」

ソニーは笑いながらアーサーの手をとった。「一曲歌ってくれないか。さあ」と言いながら、彼はガイを見た。「今晩は。ちょっとお友達をかりますよ。なに、遠くへ行くわけじゃありません。目の届くところにおりますよ」彼は笑いながらガイのほうに手を伸ばした。

ガイも笑いながらソニーの手を握った。「お目にかかれて光栄です。ガイ・ラザルといいます」

「初めまして。こちらで一緒に飲みませんか」彼はアーサーの腰に手を回し、ガイに目くばせして、三人でカウンターの端のほうに歩いて行った。

そこにアフリカ、北アフリカの若者のグループがいて(ガイの前の恋人が北アフリカ人だったので)、アーサーは大いに緊張した。彼は特に北アフリカの若者は彼がガイと一緒にいるのをどう見るだろうと気になった。

 これは、合衆国で白人の友人がアーサーの黒人の友人をどう見るかという問題と状況が違う。つまり、合衆国ではアーサーは白人の友人が自分をどう見るかということにも気遣うのだ。こんな厄介な考察にかかずらっている暇もなく、二人は紹介された。

そんな心配はなかった。ソニー・カーがアーサーの背中に手を回して紹介してくれたおかげで、二人は少なくともその晩だけはソニー・カーの影響下にある特別な人物となったのである。

握手を交わしながら北アフリカの若者の間には軽い緊張感が走ったようだが、それはかすかな苦みを残してすぐに消え去った。ソニーはガイとアーサーが――この店に入ったときから――彼の招待客であり、アーサーは彼の旧友の息子であり、歌手であることを話した。アーサーはトリオのバンドマンにも紹介された。白人のベース奏者はシカゴから、トロンボーン奏者はオークランドから、ヒアノ奏者はシラキューズからだった。初対面の堅苦しい控えめなあいさつのあと、四人は打ち合わせに入った。ガイは北アフリカの若者と話していたが、構えたような、うちとけたような、張りつめた空気が漂っていた。

トリオはアーサーが出やすいように、軽いロックビートの曲を演奏しはじめた。ソニーが「お約束のサプライズ」とアナウンスし、アーサーはステージに上がった。

カウンターの椅子に腰かけているソニーは、隣に立っているガイよりずっと背が高かった。アフリカ、北アフリカの若者たちは、弱い光に照らされて、洞窟の中の石像のようであった。アーサーに最も近いサークルの向うの客の顔はよく見えないが、活気に満ちて、波立つ海のようであった。

アーサーは少しの間、ビートに合わせて動いていた。肩を後ろにそらせた動きだ。だが、彼の心は飛んでしまって、歌おうとしている最初の歌詞が出てこなかった。彼はソニーを見た。ソニーはアーサーの表情からすべてを察して、笑いながら大声で言った。

「〈ダニエル〉を歌ってくれ !」

頭の中に歌詞は浮かばなかったが、口を開いたら自然言葉が出た。

 

  ダニエルは

  山から切り出された

  岩を見た。

 

アーサーの歌声とともに、トリオもそのビートも、ソニーの黒い顔もガイの白い顔も、ほかの客の顔も、すべてが一体となった。

 

        ダニエルは

  バビロンに転がってきた

  岩を見た。

 

ソニーは手を叩いて拍子をとる。ガイの顔も輝いている。照明の外の客はソニーに合わせて拍子をとり、リズムに合わせてステージに近づいてくる客もいる。

 

エス

  山から切り出された石だ

  この世の王国を破壊する。

 

 アーサーを包む拍手は、壁が崩れる音のようだ。アーサーは取り囲まれて進めない。ついにはアーサーとソニーのデュオになった。

 

   ああ、旅は終わりに近づき

 

 ソニーは歌いながらアーサーの顔を見る。

 

   生きる苦しみからも解放される

   勝利のラッパが響きわたる

 

 このときアーサーは、何かが彼を最後のあるいは最初の大いなる試練の前に立たせるのを感じる。アーサーが見上げるソニーは、アーサーにもたれかかって肩を抱き、再びアーサーに会うことはないだろう。ポールにも会えないだろうという思いが胸に去来し、旧友ポールの息子と力いっぱい歌うのだった。

 

   杖をつき

   贖罪の十字架を背負い

 

 (アーサーの父ポールがまだ駆け出しのピアニストだったとき、ソニーは有名

なゴスペル歌手だったのだから) アーサーからソニーはそうとう高齢に見た。アーサーは一緒に歌いながら、肩にかけられたソニーの手に年齢からくる震えを感じ、かれの歌声の中にがさがさしたものを感じた。

 彼の吐く息は、長い間に蓄積した女とウイスキーと煙草、漂泊と拒絶、沈黙と音響、屈辱と再起、涙と怒り、笑い、欲望、優しさの臭いが沁みついていた。今のソニーの前に横たわっているものは何か、想像できなかった。道は開かれているのか、閉ざされているのか。彼は振り返って戻る道を探しているのだろうか。彼は何を思い出しているのだろうか。アーサーと兄ホールのことを思い出しているのだろうか。

 しかし、アーサーはまだ若い。こんなことを思いわずらって何になるというのか。記憶を切り捨てるどころか、記憶を構築しはじめたばかりだ。苦悩はまだ新しく、荒野に天幕をはり、人生の荒波に立ち向かうのはこれからだ。彼の前に道は開かれているのか、閉ざされているのか、わからない。

 〈私にはわかる〉とソニーはうめくように歌い、アーサーも最後の歌詞をソニーに合わせる。

 

   あなたのなしとげたことを私は喜ぶ

   レースは終わりだ

   鍵は私の手にある

   この鍵をあなたに手渡し

          神を讃えよう

ひとの手でつくれない新しい家がここにある

 

 ガイとアーサーはその夜をソニーと彼の友人たちと過ごし、ピガールにあるソニーのアパートで朝食をともにした。日が高くなってからガイの部屋に帰って床につき、目が覚めたのは夕方だった。

 それから遅い夕食をとり、二人で話し合った結果、翌々日の日曜の夜の飛行機でアーサーはパリ離れることになった。

 「君がいなくなると、パリはからっぽだ」ガイはソファに横になり、アーサーの膝に頭を乗せて言った。「さみしいよ。モン・シャール・シャンタール・ソバージュ。でも、今より百万倍さみしくなるとしても、君と会えたことを後悔しないよ。生まれ変わったような気がする」彼はアーサーを見上げて笑った。「僕だってそうだよ」とアーサー。「きょうとあしたは、さよならを言わずに楽しく過ごそうよ。あしたは、この間見たレインコートを買ってさ、空港でさよならを言おう。また会えるさ。心配はいらないよ」

 ガイはしかめっつらをした。「オリンピア劇場で歌うときは切符を送ってくれよ。ジョセフィン・ベイカー、トレネット・ピアフ、イヴ・モンタン――みんなあそこで歌ったんだから」アーサーは鼻を鳴らした。「冗談で言ってるんじゃないよ。君はいつかあそこで歌うようになるよ」

 日曜日、ガイはアーサーを空港まで送り、税関のところで別れのキスをした。アーサーはガイが買ってくれたお気に入りのレインコートを着ていた。

 「雨の日はそれを着て僕を思い出してくれるよね。アメリカは大雨の日が多いらしいから。そしたら僕はうれしいな」

 ガイはパスホートにスタンプをもらうアーサーの後姿を見つめていた。アーサーは振り返って手を振った。ガイも手を振った。ガイは熱いものがこみ上げてくるのを感じた。前かがみになって大股で歩くアーサーの姿はランプの向う側に消えた。

 アーサーがパリを発った前日にジュリーがアビジャンからパリに到着し、同じ日曜日にニューヨークに戻った。彼女は弟のジミーだけにはそれを知らせたが、ジミーは南部に旅立ったあとだった。

 

ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」あらすじ(38)

ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」あらすじ(38)

    ガイの部屋で一夜を過ごしたアーサーは、午後3時ごろ目を覚ました。隣には全裸のガイがまだ眠っている。改めて明るい日射しの入るガイの部屋を見ると、机の上にアフリカ風の装飾をほどこしたペーパーナイフがある。軍服姿のガイの写真がある。アフリカの民族衣装をまとった男は、ガイの元恋人だろう。レコードプレーヤーのそばには、ジェリー・ロール・モートン、ベシー・スミス、マ・レイニー、ルイ・アームストロングデューク・エリントンビリー・ホリデイ、マヘリア・ジャクソン、アイダ・コックス、ファッツ・フアーラーのレコードがある。南部への公演ツアーが待っているので、早く帰国しなければならないが、24時間はその話はしないというガイとの約束があるし、アーサー自身、パリを離れがたい気持ちだ。

 夜になって二人でホテルに行き、チェックアウトをすませた。アーサーの荷物はガイの部屋に置き、待たせたタクシーでシャンゼリゼに出て、エトワール広場のカフェに入った。そこで二人は歴史と人類について意見を交わした。

 それから食事をしようということで、タクシーをひろい、カルチェラタンのムシュー・ル・ランス通りの裏にある中華料理の店に入った。真夜中過ぎだった。ガイもアーサーも孤独であったが、ガイのほうが孤独感が深かった。アーサーにとってガイが未知であるより、ガイにとってアーサーは未知だった。少なくとも、それは基本的に歴史の結果だった。ガイは歴史が彼に沁みついていると言ったが、彼が言いたかったのは、そんな歴史に対しては受け入れ可能な接近方法がないということだった。そんなものは彼を成長させないどころか、萎縮させる。いずれにせよ、歴史は再検討され、回復されなければならないが、ガイの残りの人生は、この再検討のために費やされるだろう。歴史を精査すること、あるいは回復することは、歴史を掘り起こすために人が堕落することとは違う。歴史を掘り起こさねばならぬと何らかの強制力が働くことは、すなわち歴史の概念もしくは歴史に書かれた言葉を拒否することである。なぜなら、書かれた歴史というのは、権力者の言葉であり、それはこの上なく魅力的に飾りたてられた虚偽の証言にほかならないからである。さらに言えば、歴史を掘り起こす試みは歴史の真実を暴露するものであり、私の存在、私がこの世にある権利を他者に認めさせる力を得る必要に突き動かされて生じるものなのである。

 結局のところ、我々は歴史とは何かがわかっていないのではないか。歴史は鏡の中にあるようなものではなく、我々の否認の中にある。歴史とは巨大な流砂のようなものかもしれない。ただし、我々をのみこもうとしてのみこむことができず、吐き出そうと苦しんでいるのだ。我々の歴史は相互的である。それだけが唯一の指標である。一つだけ確かなことは、自分自身の歴史を否認あるいは軽蔑することなくして、他者の歴史を否認あるいは軽蔑することはできない。たぶん、これこそがゴスペル歌手が歌っていることなのだ。

 食事がすんで、二人は、ジャズクラブが多いスナドリネコ通りの一軒の店に入った。アメリカ人のピアノトリオが演奏していて、近くのカウンターにメンフィスのゴスペル歌手であるソニー・カーがすわっていた。アーサーは彼を知っていた。直接の面識はないが、ピアニストである父のポールがよく話していたのだ。ソニー・カーのほうも、友人であるポール・モンタナの息子アーサーがゴスペルを歌っているのを知っていて、アーサーがロンドンからパリに入ったという情報を得ていた。

 やがて、ソニー・カーがステージに上がり、〈ダイヤのジャック〉〈シンディ〉〈イエロードッグブルース〉を歌った。特に二曲目はもともと子ども向けのバラードで、アーサーが子どものころ、父のポールがピアノの弾き語りで歌ってくれた懐かしい曲だった。

 歌い終わると、ソニー・カーはまっすぐアーサーのところに歩いてきた。

ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」抄訳(38)DELLぺーパーバックP454~③

ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」抄訳(38)DELLぺーパーバックP454~③

「わかりました。マヘリア・ジャクソンが歌っていますね。あなたの歌を一度聞きたくなりましたよ」

「僕もあなたに聞いてもらいたいです」

しばらく二人とも話をすることなく時が流れ、床を通過して上がってくるような階下の音楽が聞こえる。アーサーは指で机をたたいてリズムをとる。

「階下はナイトクラブになっているんですよ。踊りましょうか」

「いえ」と応えたきり、アーサーは指でリズムをとっている。

「きれいな指ですね。ピアノも弾くんですか?」

「ええ」お互いに張りつめた空気をほぐすようなほほえみを交わす。

 アーサーはゴスペルについて説明するが、まるで歌手ではなく評論家のようだ。自分の経歴や兄のホールのことや南部について――ピーナットを除く家系についても――話せるのが、彼自身少々驚きでもあった。ガイの表情はだんだん真剣味を帯びてきて、アルジェリアに従軍したころのことを話した。思いがけず、半ば無意識に二人は互いの距離を縮めようとしているようだ。理性ではなく、本能が二人を危険な領域に近づけているのだ。二人はそんな危険な領域に足を踏み入れまいと思っている。別々の旅の途中、混雑した待合室で出会い、言葉を交わしているようなものだ。もっと早く会っていたら、もう一度会いたいと思うと同時に、異なった土地で異なった生き方をしてきたからこそ、今ここでこうして会えるのだと思わざるを得ないのである。「甘さと苦さを一緒に味わわねばなりませんよ」アーサーは急に小さな声で歌うように言う。ガイはアーサーに合わせるように小さくうなずき、彼の顔を見つめる。ガイには〈甘さ〉と〈苦さ〉のつながりが理解できない。「あなたは素晴らしい」と子どものような明るい笑顔でガイが言うと、アーサーはおどけたようにスキャットで歌を続ける。ウエイターが近づいてくる。ガイは言う。「聴衆は踊るのを忘れて聴きほれるでしょうね」アーサーはにやりと笑い、ウエイターに二人分のウオッカをダブルで注文する。

 広い部屋に客は二人だけだ。

 「いつパリを離れるんですか?」とガイは尋ねる。

 アーサーはまじめな顔になる。

「さあ。きょうか明日、出発しようと思っていました――帰国しなきゃならない事情があるんです」

 アメリカに帰ってすぐ南部に行かなければならないことは、もうガイに話した。

「きょうじゃなくてもいいでしょう」とガイは急いで言った。「きょうは無理ですよ。もう朝の3時過ぎです」彼は平静をよそおってウオッカをなめ、煙草に火をつける。そしてアーサーの目をまっすぐ見つめる。「きょう一日、いやもっと僕に付き合ってくれるとありがたいな」彼は目を上げてほほえみ、自分の手をアーサーの手に重ねる。「いいでしょう?うんと言ってくれますか?」

 彼の手はとても大きく、重く――やわらかい。たっての願いにこたえないわけにはいかない。アーサーは身体を前に倒しながら、にっこり笑ってこたえる。ガイもにっこりとする。「ありがとう。きょうは会社は休みますよ。朝起きたら僕がランチをつくります。僕は料理がうまいんですよ。外で食べてもいいですよ――パリを案内します。僕のことも知ってほしいです。楽しく過ごしましょう」

アーサーは自分の手を握ったガイの手の上に、もう一方の手を重ねる。

「それで、僕は明日の飛行機に乗れますか?」

「それは明日ゆっくり話しましょうよ」

二人で笑った。

「乗れそうにありませんね」

「そうですね」

 二人はまた笑ったが、前のような笑いではなかった。ガイはアーサーの手を握る手に力をこめ、アーサーも強く握り返す。

 「あなたが好きになりましたよ」とアーサー。

 「僕もです。とても」

 重ねた手に力を入れて引き寄せ、互いの目をのぞくようにして、二人は唇を合わせる。ガイは目を閉じる。体内に戦慄が走り、それがアーサーに伝わる。ガイは目を開き、抑えきれない衝撃を覚えながら、少年のような輝く瞳でアーサーの目を見る。するとアーサーはガイの顔を両手で挟み、再びキスをする。発作のような解放感にとらわれ、彼は身体をふるわせる。未知のまちの初めての店の二階で未知の男とキスをする。ママとパパは眠っている。兄弟は仕事、神様は安らぎの新世界ニューイングランドをくまなく調べている。世界は多忙で、注意も気配りも審判もない。アーサーの過去は、重い幻のようにアーサーから滑り落ちるようだ。彼はそれが床に堆積するのを感じ、足で押しのける。ジュリア、クランチ、ピーナット、レッド、兄ホール、聴衆、樹木や街の恐怖、きのうの重荷、あすの恐怖、今この瞬間、すべてが抜け落ちて歌だけ――彼は歌っているときのように裸の自分をさらけ出して求める。ガイは感じやすい大きな身体をふるわせ、それがテーブルを通してアーサーに伝わり、アーサーもまた喜びと感謝で身体をふるわせる。彼にはわかる。抜け落ちた過去はいつか拾い集めなければならないが、今ではない――今は、すべてをさらけ出して互いの腕に抱かれることだ。二人の身体が離れる。沈黙が流れる。それぞれの喜びを味わいながら、深く静かに互いの体臭を吸い込む。

「どう?」

 アーサーはこの言葉の意味を、言葉ではなく目で理解する。

彼は重々しく答える。「ええ」

「出ましょうか」

「ええ、どこへ」

「僕の部屋へ。すぐそこなんです――ラ・ルー・デ・サン・ペレ」

「聖なる父の道――ですか?」

ガイはにっこり笑う。「そうです。たぶん僕には初めての道です」

「道の名前はなくても、番号があればいいんですけれどね。いずれにしても、その聖なる父はろくでなしですね」

店を出るといいながら、どちらも腰を上げない。二人ともウオッカをなめ、息を吐く。

ウエイターが戻ってくる――今までどこにいたんだろうか? しかし、そんなことはどうでもいい。ガイは請求書を要求し、支払いを済ませる。