ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」抄訳(38)DELLぺーパーバックP454~②

ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」抄訳(38)DELLぺーパーバックP454~②

 ガイはカウンターの女性に合図をする。彼女は笑顔で歯――歯痛の治療で何本か欠けている――を見せてそれにこたえる。アーサーとガイはそれを後にシルクとフランネルが敷かれた階段をのぼってゆく。

 二人は広々としダイニングルームに入り、隅のテーブルに席をとる。

 ガイは笑顔で言う。「そうぞうしくてすみませんね。いつも一人で来るときは静かなんですが」「一人のときはそんなに気にならないですからね」

 アーサーはパリの一面にふれたことで興味をそそられて、心が浮き立つのを感じる――たしかにパリの裏通りに足を踏み入れるのはアーサー一人ではできないことであり、殻を脱いでパリにとけこめるのはガイと知り合ったおかげといわなければならない。

 一人でホテルにこもっていたり、一人で散歩したりするのではわからない、いかにもパリらしい場所である。

 「ここなら夜中まで開いているし、邪魔をするやつはいないですよ」

 彼はジタンの箱を取り出してアーサーにすすめる。アーサーは首を静かに振って、ていねいに断る。

 「前に吸ったことがあるんですが、胃が頭に突き抜けるような気がしたんです」二人で笑った。ガイはジタンに火をつけた。「次にパリに来るときは、勇気がついていると思います」

 「煙草のことでそんなに深く考えることないですよ。またパリに戻ってきますか?――じゃ、僕の印象は悪くないわけですね。いつですか?」

 「いつかわかりませんが、戻ってきたいと思います」

 沈黙が流れ、ガイは煙の向うのアーサーを見つめる。

「戻ってきたいというところをみると、もどってきますね。僕もまたお会いしたいと思います」

 アーサーは内向的な性格ではない。どんなときでも気おくれするということはなかった。特にここはアメリカではないので、大胆で強気だ。「僕に会いたい?なぜ?会ったばかりなのに」

 「そう。あなたに会いたいという僕の気持ちをたしかめるために会う必要があるんですね」

 二人の視線が合う。アーサーは含みのある微笑を浮かべてうなずく。ウエイター――階段に腰を下ろしていた男だ――がトレイを持って近づいてきて、注文を待っている。

 「何にしますか」

 「コニャックを飲んでいたのですが、ほかのものにします」

 ガイは彼を見つめ、何とはなしに二人で笑う。

「今度は何にしますか」

ウオッカのダブルをオンザロックで」

「じゃ、僕も同じで」

 ウエイターは離れていく。アーサーは同室の客がいなくなっているのに気づく。まるでアーサーとガイだけになるように、だれかが仕組んだようだ。

 まさかとは思うが、あり得ないことではない。気にはなったが、どうでもいいことだ。ウオッカを飲みたかった。とことんつきあってやれ。何があっても構うものかという気分になっていた。

 この瞬間、理屈抜きでガイのことが好きになる。アーサーは無言で煙草に火をつける――同時にガイはジタンの火を消す――ウエイターがウオッカのダブルを持って近づいてくる。

 二人はグラスをとって合わせる。

「あなたはパリに住んでいるんですか?」

「パリに来たのは最近ですよ――フランスの片田舎から来たんです――ナントの近くですが」

「どのあたりですか?」

「北のほうですね」ガイはウオッカをすすった。「北のはずれです」

「パリへは何をしに」

 ガイは笑って「つまらん仕事ですよ――何といったらいいかな――アシュラーンス――保険ですね」

「生命保険ですか」

「そこまで落ちたくないです」彼はアーサーの顔を見て笑った。「生命保険でなく火災保険ですよ。盗難とかそんなもんです――金持ちの財産を守る仕事です。やりがいのある仕事じゃないですか?」

「金のない人間が金持ちになるというのは?」

「それは難しいですね。野心的ではありますが――あなたは何をしていらっしゃるのですか?」

「歌を歌っています」

「そうですか。どんな歌を?」

「ゴスペルです」

「何ですか」

アーサーはその質問を待っていたように、褐色の瞳の目を見開いて言う。「ゴスペルを歌っているんです――ゴスペル歌手です」

ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」抄訳(38)DELLぺーパーバックP454~①

ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」抄訳(38)DELLぺーパーバックP454~①

  カフェ・ド・フロレのテラスにすわっていた赤毛の大男が、テラスのドアを開け、にこやかな笑みを浮かべてアーサーに近づいてくる。

「お邪魔ですか?」

屈託のない笑顔で、黒い瞳にはあたたかさがある。

「構いませんよ。どうぞ」と、アーサーは椅子を目で示す。

「ありがとう」と、赤毛の男は言う。彼は腰を下ろし、周囲を見回し、時計を見る。「ここはもうすぐ閉店ですよ。よかったらほかの店で飲みませんか。ここから2分ぐらいのところに知っている店があります」

「いいですね」アーサーはコニャックを飲みほし、レシートを見てテーブルに代金を置く。二人は立ち上がる。

 「アメリカの方ですね」と赤毛の男は言う。「チップをだいぶはずみましたね。フランスの経済が乱れます」彼はフランスの経済を笑いとばすように笑い。アーサーをうながすように外に出る。

通りに出たところで、彼は手を差し出す。

「ガイ・ザラスといいます」

二人は握手する。「アーサー・モンタナ」です。

「ああ、同じ名前のバーが近くにありますよ――これから行くところは違いますが」二人は歩きはじめる。「モンタナ州からとった名前じゃないでしょう?」

「そうじゃないといいですれけれどね」とアーサーは言い、二人で笑う。

最初の角を右に曲がる。五、六人の少年少女が談笑していて、バレーのアラベスクのポーズをとる者がいる。しっかりした大股の足どりで、身体をゆらしながら、まっすぐ前を見て歩く男がいる。グレーのスカーフが首から肩にかかっている。短い赤い巻毛が風に吹かれてゆれている。

「パリは初めてですか」

「そうです。着いたばかりなんですよ。二日前です」

「モンタナから――?」

「モンタナは行ったことないんです。ニューヨークからロンドン、それからパリへ来たんです」

ガイはアーサーの肘に軽くふれて合図し、さらに暗い細い路地に入る。狭い道に人があふれ――影が交錯し――音楽や話し声が道の両側の明るい窓と出入口から聞こえる。窓にもたれあるいは外に出て商品の品質、値段について応酬する市場を通り抜けているようだ。

「フランス人はどうですか?」

「わかりませんよ。話をしたのはあなたが初めてだし。でも、パリにはとても興味ありますよ」

ガイは思いがけないことを言われたようにアーサーの顔を見て、うちとけた照れくさそうな笑顔を見せた。

二人はロックされているらしいドアの前で立ちどまる。すぐ近くの窓からバーらしい内部のようすが見え、活気に満ちた音楽や話し声がもれてくる。ガイはドアのベルを押し、アーサーの懸念を打ち消すように笑いかける。「だいじょうぶ、だれの邪魔にもなりません。個人会員ばかりですから」

ドアが細く開いて人の目だけが見える――アーサーはギロチンを思い浮かべる――ブザーが鳴ってドアが開く。

 ガイはアーサーを前に押し出す。一歩入ると、玄関ホールは狭く、灰色がかった青というか、ほこりっぽい白で、その先は天井の高いクラブ入口である。入ってすぐの階段に腰を下ろしている客もいる。左側に通路があって別の部屋がある。右側には小さなカウンターがあって、そこにブザーを鳴らしてドアを開けてくれた女性がすわっている。ドアの隙間からガイを見て、ドアを開けるよう彼女に指示した黒髪の男性が笑顔でガイと握手する。フランス語と音楽がどっとアーサーに押し寄せる。見知らぬ客の笑顔の波に溺れそうになる。また、アーサーとガイのコートを受け取り、優雅に名前を名乗りながら握手する青年の笑顔、カウンターから身を乗り出してガイの頬の両側にキスし、名前を名乗りながら待ちかねたように「ムッシュ・モンタナ」と呼びかけてアーサーに握手を求める女性の笑顔ももてあます。そんな中、ガイはひたすら顔なじみの客に愛想を振りまきながら、アーサーに笑顔や挨拶はいいから前に進めと肘で突いて合図する。バーには大勢の客が立っている。アーサーには獲物を求めて襲いかかる男たちのように見える。階段から熱い視線を送る男女がいる。左側の部屋にはキッチンがあるようだが、内部はニューヨークのハーレムを思い出させて、目をそむけたくなる。

 ガイが右のほうを見ると、空いているテーブルはない。彼は笑顔で手を振り、アーサーの右を歩いて彼がテーブルに近づかないようにする。

ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」あらすじ(37)

ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」あらすじ(37)

 パリのアーサーから近日中に帰国するという電話があった。ホールに南部へまた一緒に行ってくれないかという話もあった――彼はどこにいてもずっと考えていたらしい。ホールもそうだった。

 兄のホールに電話したあと、夜のパリの街に食事に出た。コニャックを飲みながら、クランチのことを思った。いろいろあったが、クランチが最初の同性の恋人でよかったのか、悪かったのか、アーサーにはわからなかった。

 クランチが朝鮮から帰ってきたとき、ふさぎ込んでいつ爆発するかわからない怒りを抱えているように見えた。ジュリアのことが忘れられなくて、彼女が流産した赤ん坊のことが重くのしかかっていたせいだろう。彼はアーサーの身体にふれようとしなかった。

 アーサーがジミーに会ったのは、ジュリアとジミーとレッド・ロブスターで夕食を共にしたあと、二人で125番通りのバーで飲んだのが最後だった。

 小さいころは、アーサーはジミーを気にとめたことがなかった。ジミーは少女説教師ジュリアの無口の弟で、家の中にも信者が押しかけてジュリアをもてはやすものだから、ジュリアに近づけないような存在だった。

 ジミーはキャンデーやアイスクリームを買ってくれたり、映画に連れて行ってくれるアーサーが好きだったし、ステージに立って歌う姿にあこがれも抱いていた。ニューヨークに住み続けるのか南部に帰るのかというアーサーの問いに、ジミーは近いうちに南部に帰るつもりと答えた。次の日の午後、アーサーはカリフォルニアに行き、戻ったときは南部に行ったあとだった。そのころ、ジュリアがホールのもとを去ってアフリカへ旅立ち、ホールとアーサーとピーナットが南部の公演に出て、ピーナットが行方不明になるという事件があった。

 

ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」抄訳(37)DELLぺーパーバックP436~

ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」抄訳(37)DELLぺーパーバックP436~

  ピーナットが行方不明になった衝撃で、我々は散り散りバラバラになってしまった。彼の祖母は部屋に閉じこもって空しく彼の帰りを待っていたが、三カ月たって、捜索に出ようとしたのか、キッチンで倒れているのをレッドの母親が見つけた。旅に出るような姿で、鍵を握りしめ、荷物がいっぱい詰まったスーツケースがそばにあった。

  レッドの居所はつかめなかった。ピーナットの祖母の葬儀が済むと、レッドの母親は荷物をまとめ、親戚の残っているテネシー州へ引っ越した。五十をちょっと過ぎたくらいの若さであったが、ピーナットが行方不明になってからめっきり老けこんで、髪もすっかり白くなり、肌もつやを失ってしまった。最後に私が会ったときは、彼女は「もう笑うことを忘れてしまったよ」と言っていた。「ピーナットはよく私を笑わせてくれたからねえ」レッドの名を口にすることもなく、引越し先のメモも残さず旅立っていった。

 アーサーは西部の諸都市を公演して回り、シアトルからカナダ、それから初めてとなるロンドン、パリ、ジェノバ、ローマを訪れた。彼のハガキはいつも簡単なことしか書いてないが、ヨーロッパで変化が生じて、味気なく、慎重で辛らつになったような気がした。こんなことを書いてきたことがある。「こちらでは修道院のマザーになったみたいに孤独だよ。でも、そのほうがいいのかもね。他人を近づけなければ、傷つけられることもないから」これだけでは足りないと思ったのか、「愛はこの世で最も貴重なものだが、得難いものでもあるよね。兄さん、愛はどこに隠れているんだろうか」とも書いてあった。私には彼がゴスペル歌手から脱皮する必要に迫られて、慎重に考えているように思えた。

 そのころ、私はアーサーの歌には特別の関心を持っていなかった。アーサー個人の問題であり、私には関係がないと思っていたのだが、ある事件をきっかけにこの考えがゆらぎはじめた――たぶん、明白だと思っていることが一番わかりにくいのである。アーサーのノートから、時間の経過とともに友だちの名前が消されているのが気がかりだった。レッドはどこにいるのか。クランチとはもう会えないだろう。行方不明のピーナットは殺されたのかもしれない。この三人はアーサーをリードボーカルとするゴスペルグループを組んでいた。ジュリアは私のものになったが、クランチのことは忘れられないだろう。ときどき彼女はアビジャンからつかみどころのない手紙をくれた。たぶん、うまくいってないのだろう。しかし、私は彼女のことは考えないようにした。ジミーとも会わなかった。18番街から動いていないだろう思い、訪ねてみようと思ったこともあったが、やめておいた。

 私は不動産会社から黒人向け雑誌の編集部に移った。フォークナーのうす気味悪い顔を見なくてすむのはせいせいしたが、新しい職場も雰囲気が悪くて、万事オーケーというわけではなかった。ただ、それは仕事のせいなのか、ジュリアを失ったせいなのか、単純に自分のせいなのかわからないまま、俺は不用で不要で、歌にあるような無用者なんだと感じていた。

 だが、私は他者の集団が好きで、朝起きて地下鉄で出勤し、職場という薄い人間関係の中で一日働いてくたくたに疲れ、小さな安っぽい満足感に浸るのが好きなのだ。私が同僚とうまくやっていけるのは、仕事をきちんとこなして、野心を抱くこともなく、会社の発展計画なんかには無頓着で、他人の職分をおびやかさないからだとわかっている。私はチャンスを窺っていたが、時間は待ってくれない。時は移る。数年のうちに実績をつくらなければ、格下げされ、同僚や上層部は軽蔑と憐閔の目で私を見るようになる。そんなことには耐えられないし、そうなったらもう人生下り坂というものだろう。

 はっきり言ってしまえば、私は広告業というものをまじめに考えたことがない。実にくだらない仕事だ。(三つのカップのどれにコインが入っているか当てる)シェルゲ―ムのようなもので、完全に吸い込み原理に基づいたものなのだ。こんなイカサマにひっかかるやつはアホだ。広告が読者や視聴者に吹き込む人生観は――逆もまた真なり――現実あるいは人生の真実を我慢のならぬもの、耐えきれぬもの、恐ろしいものとねじ曲げ、結局のところ虚構にしてしまうのだ。読者や視聴者は、選ぶのは自分だと夢想しているかもしれないが、けばけばしい愚劣なイメージにしがみつき、情け容赦なく巧妙にブランド品を買わされてしまうわけである。たしかに、社会の批判を受けたり、世間の評判は当てにならないと知らされるときはあるが、楽しげな映像や音楽によって簡単に打ち消されてしまうのだ。コマーシャルソングは、繰り返し繰り返しこの国の信じがたい栄光を謳歌し、国民は悲観的であってはならない、緊張してはならない、狂気にとりつかれてはならない。いかなるときも、一瞬たりとも冷静さを失ってはならない。額にしわを寄せてふさぎ込んではならない。男らしく女らしくせよ。子どもはいつも明るくほがらかでなくてはならない。目は生き生き、髪はつやつや、歯は白くなくてはならない。しぼんだ胸、たるんだ腹、たれた尻ではいけない。いつも希望をもち、絶望にとらわれてはならず、過激な集団の過激な行動に走ってはならない――と徹底的に教え込まれるわけである。かくて、愛は家庭用良品認定シールとなり果て、エデンの園から追放されたにもかかわらず、頭金が不要で、円満な近所づきあいの中で成熟するのである。

 

ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」あらすじ(36)

ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」あらすじ(36)

 シャーロットでピーナットの親戚のもてなしを受けた三人が車に戻ってラジオのスイッチを入れると、キューバ問題のニュースを放送していた。核戦争になりそうだと国中が大騒ぎになり、だれもがキューバはフロリダからわずか90マイルであることを再認識したときだった。アトランタに入ったときは夜になっていた。アトランタの夜は黒人にとって特に危険だといわれているが、リード夫妻がくわしい地図を描いてくれたおかげで、無事その日の宿に着くことができた。次の日はアラバマ州バーギングハムでアーサーの公演を済ませて、午後またアトランタに戻った。

まだ明るいうちで、公演開始の時間までまだ間があったので、白人たちでごったがえす街に出た。とあるバーに入り、テーブルにつくとすぐ、ピーナットはジュークボックスのほうに行った。しばらくして、ずんぐりした黒人の若者がピーナットに近づいて何か話しかけた。何を話しているのか、アーサーとホールには聞こえなかったが、話し終えるとピーナットは深刻な顔でテーブルに戻ってきた。前の晩、KKKが町はずれで大集会をやり、篝火をたいて気勢を上げた。アトランタだけでなく、南部のいたるところでKKKが動き出したというのだ。KKKだけでなく、WCC(白人至上主義協会)や反共主義団体であるJBSもジェームズ・イーストランド上院議員も参加する大がかりなものだという。「すぐ宿に帰ったほうがいいんじゃないか」とピーナット。

バーを出て、ほかの店のジュークボックスからレイ・チャールスの“Don't Let's the Sun Catch You Crying”(太陽に泣き顔を見せないで)が流れてくるの聞きながら宿への道を急いでいると、三人の白人が近づいてきた。そのうちの一人がホールに言った。「おまえら、おとといの夜このまちに入ったんだな」ホールは何も言わなかったし、ほかの二人も黙っていた。しばらくしてホールは言った。「ええ、友だちを訪ねてきたんです」ホールの話しかたにニューヨークのアクセントがあるのを知った相手は嫌な顔をした。「北部の黒んぼは北部に引っ込んでりゃいいんだよ」道路の反対側の家のポーチで女性が叫んだ。「相手になっちゃだめよ。こっちにいらっしゃい。だれか助けて、助けて」

ピーナットとアーサーが倒れ、ホールも頭に一撃くらった。組み合って地面に倒れ、相手の首を絞めているところをだれかに引き離された。アーサーはピーナットに寄りかかるようにして立っていた。唇から血が流れていた。黒人たちが周囲を取り囲んだ中の一人が三人の白人に銃を向けていた。よく見ると、それは宿を提供してくれたエルキンスさんだった。三人はすごすごと彼らの車で走り去った。残った人たちの顔は「このままじゃ終わらない」という心配でくもっていた。

 宿に帰り、アーサーの傷を調べると、上唇が腫れあがって痛そうだった。公演の時間が迫っていたが、歌えそうになかった。

 「歌うのは無理だろう」とホールが言うと、アーサーは「歌うよ。支度してくれ」と答えた。「氷をもらってきてくれないか。30分ぐらい横になって冷やすよ」。

 キッチンへ行って氷を頼むと、エルキンス夫人は「今夜は外にでないほうがいいですよ」と言いながら、氷とタオルをくれた。

 ホール、アーサー、エルキンス夫妻、支援者の女性三人で今後の対策を話し合った。アーサーの傷はすぐにはよくならないが、コンサートをキャンセルして夜ニューまで車を走らせるのも危険である。教会の中のほうが安全ではないかということで、アーサーの強い意志もあって、口を大きく開けないで歌える曲を一曲ということになった。

 教会はアトランタ郊外の静かな川のほとりにあった。周囲を警官隊が取り囲み、強い光があてられていた。エルキンス夫人が事件の経緯を簡単に説明し、傷がなおりしだいコンサートをやり直すことを約束して、アーサーは“The Comforter Has Come”(救い主はきたれり)を一曲だけ歌って終了となった。帰りに教会の出口で、ピーナットが「トイレに行ってくる」というので待つことになった。ところが、いつまで待っても戻ってこない。トイレに探しに行くと、ピーナットがいつも持っている黄色いノートが落ちていたが、ピーナットはいなかった。引き上げようとしている警官に尋ねても、チューインガムを嚙みながら「知らねえな」と言うだけだった。

ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」抄訳(36)DELLぺーパーバックP411~

(レッドの腕に残る麻薬注射のあとを見たピーナットは言った)

「レッド、力になるよ。何でもするよ。何でもするよ」私は彼をすわらせ、泣きやむまで抱きしめた。

「レッドは朝鮮戦争のときに現地で麻薬を覚えたと言っていた。わかるよと僕は言った。理解できると思ったんだ。彼は白人やユダヤ人に対する憎しみも話した。わかるよと僕は言ったけど、それは問題の本質じゃない。だからと言って盗みをしていいわけじゃないし、愛してくれる人を傷つけることが許されるわけじゃないし、彼自身を破滅させる行為が許されるわけじゃないんだ。二人で朝まで話し合ったよ。どこかほかの土地へ行って、二人でやり直そうと言ったけど、レッドは僕を巻き込みたくない、自力で更生する、信じてくれと言った。信じるよと僕は言ったけど、次に会ったときにはレッドはクスリをやめていた。けど、それもしばらくの間だった」

ピーナットはそこで話すのをやめた。窓の外を木々が飛ぶように過ぎ、彼は長い間、押し黙ったままだった。道路を転がるタイヤの音と、風の音だけが聞こえた。アーサーは厳粛な顔をして、目には輝きがあった。同じ車内にいても、違う場所にいるようだった。

「そのうちにママのテレビがなくなった。ばあさんの古い時計が消えた。一度だけ僕をワシントンに訪ねてきたことがあったが、部屋からステレオと洋服がなくなった」

ピーナットは涙声になったが、泣いてはいなかった。彼は煙草に火をつけ、座席にもたれかかった。

 「信用してくれとレッドが言って、二人でじっくり話し合ったころは、彼はまだタップダンスやボクシングをやっていて、いろいろ面白いことを話してくれた」

 ピーナットは煙草を大きく吸い込んだ。

 「あるとき、僕は屋根の上に寝そべっていた。二人でよくそうやって話したものだ。部屋に入ってピーナットがいないと、屋根の上に見つけることがあったし、その逆もあったんだ。その日も頭の下に手を組んで空を見ていると、レッドが上がってきて、いつもどおり、僕の腹のボタンをつついた。夏の夜で、何だかわからないが、あの年齢によくあるメランコリーな気分だったことを覚えている。僕もレッドをつつき返し、いつもはそこでふざけて取っ組み合いになるんだ。屋根の上なんで、転落するんじゃないかと心配だったよ。けど、その日はそうはならなかった。彼は私の隣りで膝をついていた。トレーナーに汚れの目立つ白いズボンをはいていた。僕はにやにや笑う彼の白い歯を見ていた」彼は言った。「何だかムシャクシャするなあ。リラックスさせてくれないか。いいやりかた知ってるんだ」「いいよ」と僕が言うと、彼は相変わらずにやにや笑いながら「教えてやるよ。俺が最初にお前にやってやるから、俺にもやってくれないか」僕は何だか気味が悪くなったが、いつもレッドの言うとおりにしてきたんだ。

 彼は僕のそばに横になって、僕のペニスをつかんで出した。自分でやり始めたばかりだったので、はじめは怖かった。「楽にしてな。いい気持ちにしてやるから。悪いことするわけじゃないんだ。あとで俺にやってくれよな。欲しいんだよ。今ひどく欲しいんだ」――同じことを彼にやってやる自分を想像するだけで、やってやりたくなった。そんなこと考えたこともなかった。けど、彼の手が動いている間、次は俺がやってやるんだと思うと、今まで自分一人でやるより、ずっと気持ちよくなってきたんだな。「どうだい?」と彼が聞いたときは、僕はあえぎながら「すごくいい」と答えたよ。彼がスピードを上げたので、僕はうめきながら目をつむった。この世界に彼の手しかないような気分になって、今までにないようないい気持でイッタよ。あれは空にまっすぐ飛び散って、僕のシャツと彼の手を濡らした」

 「俺の番だ」と彼は言った。

 僕は片方の手を彼の肩の下に回し、強く抱きしめ、片方の手で彼のペニスを取り出し、シコシコやりはじめた。彼はすっかりその気になって「ゆっくりな」と言った。新しく彼のためにしてやれることが見つかって、僕はうれしかった。前よりもずっと彼のことが好きになったよ。大きくなる彼のペニスを見ながら、言われたとおり、ゆっくり続けた。僕の耳のそばの彼の息づかい、僕の肩にぶつかっている彼の肩の感触は忘れられない。彼の体臭、彼のシャツの臭いも忘れられない。彼は赤ん坊のように僕にまかせきって、僕は彼の足の動きを見ていた。レッドは僕の知らないレッドをさらけ出して、ペニスはますます大きく硬くなって、僕の手からはみ出しそうだったし、動物のように跳びはねるんじゃないかと思ったよ。だんだん彼の息づかいが荒くなってきたので、僕は手に力を入れてスピードを上げ、力いっぱい抱きしめた。やがて彼は溺れそうな声を出して、足のつま先が震え、私の肩に顔を埋めた。僕は彼を抱く手にますます力を入れて、ペニスが波打って暗い空に放出するのを見つめていた。僕自身、何ともいえない幸せな気分につつまれた。

 彼がすわり直すのがバックミラーで見えた。彼は吸いさしの煙草から火をとって新しい煙草を口にくわえた。

 「服はまた買えばいいし、ステレオもそうさ。最悪ってわけじゃない。けど、愛する男への感情が憎悪に変わっていくのは最悪だった。自己嫌悪に陥っているレッドを僕は憎んだ。愛でいっぱいだった心が少しずつしぼんでいって、傷だらけの穴ぼこのようになるのにはつらいよ。その穴ぼこをどうやってうめたらいいのか。レッドは死んだと思うほかない。そして、レッドの思い出をぬぐい去ってきれいさっぱり消してしまうしかない。軽蔑と憎悪の苦い味を忘れ、傷だらけの穴ぼこを忘れるんだ。その穴ぼこは今も僕の中にあって、レッドのことを思うと、熱湯と冷水が背骨をかけめぐるんだ」ピーナットは煙草をもみ消し、座席に身体を沈めたので、バックミラーからは見えなくなった。だれも何も言わず、車は走り続けた。

ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」 【あらすじ35】

   リード夫妻の厚意で、アトランタにいる夫妻の友人の家に宿が確保され、好天のせいもあり、アトランタへの旅は快適なドライブだった。車中、ピーナットはレッドの思い出を話した。

   ピーナットは幼いころ両親を失い、祖母の手で育てられ、10歳のときに親戚であるレッドとその母を頼ってニューヨークに移住した。ピーナットより少し年上のレッドはいろいろなことを教えてくれた。コニーアイランドの砂浜に寝そべって、将来の夢を語り合った。レッドに泳ぎを教えてもらったのも、そのころのことだ。セントラルパークの貯水池の周りをランニングしながら、乗馬の男女にあこがれて、将来西部で牧場を買って、それぞれの母と祖母を呼んで面倒みようと話し合ったこともある。レッドがボクサーを目指したときはスパーリングの相手をつとめ、タップダンスに凝っていたときは、練習用のレコードを盗む手伝いもした。ピーナットの目には、白い歯を出して上機嫌で踊るレッドの姿がいつも浮かぶのだった。ピーナットにとって、レッドは兄以上の存在であり、心から信頼し尊敬していた。

   だが、成長するにつれて、二人の間に距離ができはじめた。レッドの帰りが遅くなり、朝になって帰ってくることもあった。家にいるときはソファに横になってテレビを見ていて、ピーナットと言葉を交わすこともなくなった。何か苦しいものを抱えているらしいと思っても、ピーナットにはどうすることもできなかった。母親もレッドのことをとても心配していた。彼女はピーナットにとっても母親同然だったので、何とかしてあげたかったが、きっかけがつかめなかった。昼間どこで過ごしているのか、レッドはピーナットに明かさなかったし、遊び友だちに聞いてもだれも知らなかった。「仕事を探している」と言ったことはあるが、そんなふうには見えなかった。

    そんなある晩、母親がレッドに「仕事は見つかりそうなの?」と尋ねたことがあった。ごく単純な、普通の質問だった。問いつめるわけでもなく、責めているわけでもなかった。するとレッドはソファから跳び起きて言った。「ユダヤのクソ野郎の言いなりになれってのか。そんなんだから黒人はユダ公に頭が上がらねえんだ!」そして、部屋のドアを叩きつけるように閉めて出て行った。泣き崩れる母親を見て、ピーナットはレッドの頭を叩き割ってやろうと思ったくらいだ。別の日に、彼女がしまっておいた家賃がなくなっているという。さらに、レッドはクスリをやっているんじゃないかという心配をピーナットに打ち明けた。実はピーナットもそれを心配していたのだ。レッドにそのことを尋ねると、一瞬彼の目に殺意のようなものがひらめいたが、すぐピーナットに背を向けてしまった。ピーナットが彼の肩に手をかけて向き直らせると、レッドはピーナットの腕の中に崩れるように泣き出し、腕を見せた。そこには注射のあとがありありと残っていた。