ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」 【あらすじ35】

   リード夫妻の厚意で、アトランタにいる夫妻の友人の家に宿が確保され、好天のせいもあり、アトランタへの旅は快適なドライブだった。車中、ピーナットはレッドの思い出を話した。

   ピーナットは幼いころ両親を失い、祖母の手で育てられ、10歳のときに親戚であるレッドとその母を頼ってニューヨークに移住した。ピーナットより少し年上のレッドはいろいろなことを教えてくれた。コニーアイランドの砂浜に寝そべって、将来の夢を語り合った。レッドに泳ぎを教えてもらったのも、そのころのことだ。セントラルパークの貯水池の周りをランニングしながら、乗馬の男女にあこがれて、将来西部で牧場を買って、それぞれの母と祖母を呼んで面倒みようと話し合ったこともある。レッドがボクサーを目指したときはスパーリングの相手をつとめ、タップダンスに凝っていたときは、練習用のレコードを盗む手伝いもした。ピーナットの目には、白い歯を出して上機嫌で踊るレッドの姿がいつも浮かぶのだった。ピーナットにとって、レッドは兄以上の存在であり、心から信頼し尊敬していた。

   だが、成長するにつれて、二人の間に距離ができはじめた。レッドの帰りが遅くなり、朝になって帰ってくることもあった。家にいるときはソファに横になってテレビを見ていて、ピーナットと言葉を交わすこともなくなった。何か苦しいものを抱えているらしいと思っても、ピーナットにはどうすることもできなかった。母親もレッドのことをとても心配していた。彼女はピーナットにとっても母親同然だったので、何とかしてあげたかったが、きっかけがつかめなかった。昼間どこで過ごしているのか、レッドはピーナットに明かさなかったし、遊び友だちに聞いてもだれも知らなかった。「仕事を探している」と言ったことはあるが、そんなふうには見えなかった。

    そんなある晩、母親がレッドに「仕事は見つかりそうなの?」と尋ねたことがあった。ごく単純な、普通の質問だった。問いつめるわけでもなく、責めているわけでもなかった。するとレッドはソファから跳び起きて言った。「ユダヤのクソ野郎の言いなりになれってのか。そんなんだから黒人はユダ公に頭が上がらねえんだ!」そして、部屋のドアを叩きつけるように閉めて出て行った。泣き崩れる母親を見て、ピーナットはレッドの頭を叩き割ってやろうと思ったくらいだ。別の日に、彼女がしまっておいた家賃がなくなっているという。さらに、レッドはクスリをやっているんじゃないかという心配をピーナットに打ち明けた。実はピーナットもそれを心配していたのだ。レッドにそのことを尋ねると、一瞬彼の目に殺意のようなものがひらめいたが、すぐピーナットに背を向けてしまった。ピーナットが彼の肩に手をかけて向き直らせると、レッドはピーナットの腕の中に崩れるように泣き出し、腕を見せた。そこには注射のあとがありありと残っていた。