ジェームズ・ボールドウイン「頭のすぐ上に」抄訳(33)DELLぺーパーバックP382~

ジェームズ・ボールドウイン「頭のすぐ上に」抄訳(33)DELLぺーパーバックP382~

 ピーナットとアーサーと私が南部へ行ったときは、どのステージもアーサーには伴奏者がいなかった。ピーナットは会場整理から警備、そのほかアーサーの右腕となって働いた。私にはわからないことだが、不思議なことに、ピーナットはアーサーの人気の大きさ、見込み――潜在する危険はもちろんのこと――をだれよりも早く予測することができたのである。たとえば、南部全体でどれほどの教会、助祭、牧師がアーサーの評判を聞いて呼んでくれるかはピーナットだけが知っていることだったし、アーサーが学生の間にどれほど熱狂的な人気があるか、ピーナットだけが知っていることだった。アーサーはまだレコードを出していなかったから、こういう情報はほとんどが口コミだった。彼は四人か五人のバックコーラスとともにステージで歌い、ライブ録音はされていたが、スタジオ録音はやったことがなく、ノーギャラか、それこそ雀の涙ほどのギャラしか受け取ったことがなかった。彼はレコードを作るなんてことは頭になかった。自分の歌は、歌っているその時、その場限りのものとしか思えなかったのである。我々の耳に入ってくる評判からすれば、アーサーの考えは正しいとはいえなかったが、評判はあくまで評判としかとらえられなかった。ポールはやがて来るべきアーサーの爆発的人気をマネージャーの私に予言したし、ピーナットもまたアーサーの将来を約束していたのである。

 またアラバマ州バーミンガムの話になるが、これほどひどい呪われたまちはない。バーミンガムが夢に出てきて、冷や汗をかき叫び声を押し殺して飛び起きる黒人は私だけではないだろう。しかし、実際のところ、私たちの最初の公演地はヴァージニア州リッチモンドだった。それから、アトランタバーミンガムタラハシーと移動した。これらの都市は実に気の休まるときがなかったが、現在でも同じだろう。だが、このときの演奏旅行あるいはその後の演奏旅行をとおして、特にバーミンガムは長居無用、用が済んだらさっさと立ち去るべきと、つくづく思ったものである。ばかげた話に聞こえるかもしれないが、遠く離れたワシントンやニューヨークを知らない者は、アトランタに着いただけでもほっと安堵の吐息をもらすのである。といっても、このことはアトランタに光明が見出せるということではなく、ただ単にこのまちが黒人差別に対する社会の批判に耐えられなくなったということなのだ。つまり、投資を呼び込みまちを発展させるためには、公開リンチをやめることなんて小さなことだという方向へ考えが変わっていったというわけだ。であるから、三つ葉の松が名物のジョージア州のほかの都市では、これまでどおりの黒人差別が横行していたのだ。