ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」あらすじ(38)

ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」あらすじ(38)

    ガイの部屋で一夜を過ごしたアーサーは、午後3時ごろ目を覚ました。隣には全裸のガイがまだ眠っている。改めて明るい日射しの入るガイの部屋を見ると、机の上にアフリカ風の装飾をほどこしたペーパーナイフがある。軍服姿のガイの写真がある。アフリカの民族衣装をまとった男は、ガイの元恋人だろう。レコードプレーヤーのそばには、ジェリー・ロール・モートン、ベシー・スミス、マ・レイニー、ルイ・アームストロングデューク・エリントンビリー・ホリデイ、マヘリア・ジャクソン、アイダ・コックス、ファッツ・フアーラーのレコードがある。南部への公演ツアーが待っているので、早く帰国しなければならないが、24時間はその話はしないというガイとの約束があるし、アーサー自身、パリを離れがたい気持ちだ。

 夜になって二人でホテルに行き、チェックアウトをすませた。アーサーの荷物はガイの部屋に置き、待たせたタクシーでシャンゼリゼに出て、エトワール広場のカフェに入った。そこで二人は歴史と人類について意見を交わした。

 それから食事をしようということで、タクシーをひろい、カルチェラタンのムシュー・ル・ランス通りの裏にある中華料理の店に入った。真夜中過ぎだった。ガイもアーサーも孤独であったが、ガイのほうが孤独感が深かった。アーサーにとってガイが未知であるより、ガイにとってアーサーは未知だった。少なくとも、それは基本的に歴史の結果だった。ガイは歴史が彼に沁みついていると言ったが、彼が言いたかったのは、そんな歴史に対しては受け入れ可能な接近方法がないということだった。そんなものは彼を成長させないどころか、萎縮させる。いずれにせよ、歴史は再検討され、回復されなければならないが、ガイの残りの人生は、この再検討のために費やされるだろう。歴史を精査すること、あるいは回復することは、歴史を掘り起こすために人が堕落することとは違う。歴史を掘り起こさねばならぬと何らかの強制力が働くことは、すなわち歴史の概念もしくは歴史に書かれた言葉を拒否することである。なぜなら、書かれた歴史というのは、権力者の言葉であり、それはこの上なく魅力的に飾りたてられた虚偽の証言にほかならないからである。さらに言えば、歴史を掘り起こす試みは歴史の真実を暴露するものであり、私の存在、私がこの世にある権利を他者に認めさせる力を得る必要に突き動かされて生じるものなのである。

 結局のところ、我々は歴史とは何かがわかっていないのではないか。歴史は鏡の中にあるようなものではなく、我々の否認の中にある。歴史とは巨大な流砂のようなものかもしれない。ただし、我々をのみこもうとしてのみこむことができず、吐き出そうと苦しんでいるのだ。我々の歴史は相互的である。それだけが唯一の指標である。一つだけ確かなことは、自分自身の歴史を否認あるいは軽蔑することなくして、他者の歴史を否認あるいは軽蔑することはできない。たぶん、これこそがゴスペル歌手が歌っていることなのだ。

 食事がすんで、二人は、ジャズクラブが多いスナドリネコ通りの一軒の店に入った。アメリカ人のピアノトリオが演奏していて、近くのカウンターにメンフィスのゴスペル歌手であるソニー・カーがすわっていた。アーサーは彼を知っていた。直接の面識はないが、ピアニストである父のポールがよく話していたのだ。ソニー・カーのほうも、友人であるポール・モンタナの息子アーサーがゴスペルを歌っているのを知っていて、アーサーがロンドンからパリに入ったという情報を得ていた。

 やがて、ソニー・カーがステージに上がり、〈ダイヤのジャック〉〈シンディ〉〈イエロードッグブルース〉を歌った。特に二曲目はもともと子ども向けのバラードで、アーサーが子どものころ、父のポールがピアノの弾き語りで歌ってくれた懐かしい曲だった。

 歌い終わると、ソニー・カーはまっすぐアーサーのところに歩いてきた。