追悼 石渡幹夫【Ⅴ】二町谷の思い出

 私が子供の頃、かなり幼い頃から、母の実家である通称二町谷の家によく行っていました。私が、通っていた幼稚園のすぐ近くにあるその家は、大きな桜の木と、当時は、珍しい、木で出来たベランダ(今で言うなら、ウッドデッキ)がありここからは、富士山や海が見えて、その場所が大好きでした。そして、自分の家でもないのに、ちょっと、自慢の家でした。そこには、節ちゃん、幹兄ちゃん、まあちゃん、純ちゃん、という、いとこ達がいました。皆、私より年上なのになぜ、幹兄ちゃんだけ、呼ぶとき兄ちゃんがつくのか、わかりませんが、その呼び名は、今でも変わりません。夏になると、二町谷の海で、貸しボート屋をしていて、麦わら帽子をかぶったおじいちゃん(文次郎さん)が、ボートのクラッチの手入れをしていたり、よしずで囲われた、簡単な小屋でしたが、おばがいつも持ってくる、緑色の大きなやかんに入った麦茶(冷えているわけでもなく、ただ、机の上においてあるだけ)が、どれだけおいしかったことか。

ちいさなノートにボートの番号と時間を書き込むだけ、私は、毎日、通っていました。

 戻ってきたボートに海水が溜まっていると、しいてあるスノコをどけて、ひしゃくでくみ出します。私は、それがおもしろそうで、いつもやってみたくてしかたがありませんでした。やっとやらせてもらえた時は、うれしかった。ボートをこぐのが得意なのは、ここでの色々な体験のおかげでしょう。ある夏は、幹兄ちゃんに、ヨットに乗せてもらいました。城ヶ島の方にも行ったり、近くを行ったり来たり、爽快でした(今なら、サザンの歌がピッタリなのに)。一人っ子の私にとって、このボート小屋で過ごす何時間かは、大家族の中の一員でした。私が小学生の時、幹兄ちゃんは、大学生で、何度か東京に映画を見に連れて行ってくれました。違ういとこの、かみちゃんと一緒に。大学生がチビ達二人を連れて映画なんて、さぞかし、かっこ悪く、面倒だと思ったことでしょう。でもその頃は、そんな事は全く考えたことはなく、ただ、うれしくて、ヒョコヒョコくっついていました。50年たっても、夏になると、思い出すのは、あの二町谷の海と、おばちゃんの麦茶とやさしかった幹兄ちゃんに乗せてもらったヨットの帆のまぶしい白さです。                           

                              下里みの子