ピンホールの向こう側

 四年前の父逝去を挟んで田舎へ往来する機会が増えて、その途次、みちのくの小京都と自己PRする角館発で、山間を縫いながら秋田内陸部を北へ縦貫するローカル線をいつも利用する。

 列車は角館を出ると、やがて通過に六分以上かかる長いトンネルに入り、山ひとつを越えて向こう側に通り抜けて行く。

 そのトンネルを行く車内から前方に目を凝らしていると、行く手の漆黒の闇にポツンと白い点が浮かんで次第に大きく膨らんで出口の明るさとなる。

 越える山の向こう側に気を引かれながら出口に近付いて行く中で、『トンネルを抜けると雪国であった』との短い書き出し文が思い浮かんできた。東北地方の山間部では山ひとつの前後で別世界の光景に出会うことも稀ではないけれど、帰郷する度に山の向こう側に気を引かれながら、このトンネルの通り抜けを幾度か重ねるうちに、知っているのにその都度違う感じを抱いて、開ける光景の中へ出て行っていることに気が付いた。

『トンネルを抜けると雪国であった』――川端のこの短い一文を私は、雪国にありそうな情景と思い、単に写実文としか解していなかったのだが、これから眼前に広がろうとする光景は、トンネルに入る人それぞれの心情により違う絵として感得される事を、それぞれが背にしている人生がフィルターとなって描かれていることを示唆していると知ることになった。

 人それぞれの気の在り様で、同じ光景でも見えてくる絵の心象は変わってくると云うことだろう。

 さて、折から年金特別便が手元に届いた。

 年金記録の間違いの有無の確認を求めると云うけれど、私の乗船歴は四十年に及ぶし、その離船からもう十三年が過ぎている。今ではもう加齢と共に記憶は風化気味で、単に古い数字の羅列を見るだけでは、昭和三十二年からの各船毎の経歴の連続記憶はちょっと手に余る気分のものだった。

 手付けずのまま二ヶ月が過ぎて、放置しっ放しもなるまいと、その記録を目で追っている時、前後が切れていて昭和四十七年七月二十八日から八月三十日までの船保、納入月数(一)と云う項目が気を引いた。

 四十年の乗船歴内の短い(ひと月だけ)の乗船記録って…

『アー、幹ちゃん、あの時の僅かひと月を手抜きなく処理して記録をここに残して置いてくれたのか』…昭和四十七年真夏の暑さの中で、仕事に、ヨットにと若い彼の姿が見えるように思いだされて懐かしい。

 マグロに限られた私の乗船歴の内で僅か一ヶ月だけが近海、日本海でのイカ釣り漁従事の記録であって、それが希少体験だけに呼び起こされる記憶が戻り易い。

 レンズを使っていなくても、ピンホールカメラは外の景色を小さなピンホールに絞り込んで通し、中にきれいに映像を結ぶ。

 このひと月がピンホールとなって、そこへの思い出を幅広く浮き上がらせたのだった。

 その終焉にあたって、船出の時ですと言い、さようならと別れを告げてありがとうと結ぶのも、もろもろの意味を込めるとして(イエ)の犠牲になったことを惜しむと弔意するのも、トンネルを通り抜けて姉弟が共に抱いた同じ感慨であろう。

 大きかったその御労苦を私もねぎらいたい。        

                           伊東忠夫 合掌