ジェームズ・ボールドウイン「頭のすぐ上に」抄訳(10)DELLぺーパーバックP110

 

  フロレンスは単刀直入に言った。「ジョエル、エイミーを専門のお医者さんみせてあげて。のんびりしている場合じゃないわ。ジュリアのお祈りなんか当てにしてたらだめよ!」

  ジョエルはおびえたような顔になった。おそらく、彼は女性からこんなにきつく言われたことはないのだろう。

 フロレンスは続けた。「クリスマスにこんなところで神がかりのお嬢さんのことをけなして悪いけど」。無理に声を低く抑えていたので、彼女の声は震えていた。「奥さんを専門のお医者さんにみせてあげて。さもないと私が連れていくわ。それで、頭の上に手を置くことがどういうものか、ジュリアに教える」。彼女はジョエルをみつめた。そして、悲しそうに言った。「もっと早くやらなきゃいけなかったのよ」。それから彼女は、彼のほうにぐっと顔を近づけてささやいた。「本当にどうしようもない人ね。奥さんが病気なのよ!」。彼女は息子の私が見たことのない顔で彼をみつめた。私には怖い顔だったが、ジョエルはどう受けとめただろうか。フロレンスの顔にも声にも、言いたくはないが言わなければという決意が現れていた。「ジュリアはお母さんのことを思っているのかしら」

 こう言って彼の顔を見たとき、彼女の表情は少し柔らかくなっていた。「ジョエル、神の国にいると思っている人は、時として願いがかなわぬことはないと思い込み、ほかの人もそうだと思いがちなのよ」。

 それまでジミーと並んで窓の外を眺めていたエイミーが、ジミーと離れてキッチンに入ってきた。私は身動きできなかったし、口を開くこともできなかった。だが、フロレンスは身体を起こし、陽気な大きな声で言った。「さあ、みなさん、クリスマスのディナーを召し上がりたかったら、こんなところにいてはいけませんよ」。彼女はボトルをつかんでポールに渡した。「聞いてるの?さあ、それを持っていって」。

 だが、ジョエルはワインどころではなかった。情けない顔で、立ち上がることもできず、甘ったるい体臭が舞い上がった。エイミーは彼を見ると近寄って、片手を彼の頬に当て、小さな声で言った。「どうしたの? シュガー」

 彼は泣きそうな顔で何か言いかけ――あとでポールが言うところでは、彼は全部ぶちまけそうだった。そこで、ポールは快活に「二人でちょっと外へ出てくるよ。気分がよくなるだろう」と言って、エイミーにウインクし、私は手をそえてジョエルが立ち上がるのを助けた。

 彼のために言っておかねばならないが、立ち上がってから彼は背筋を伸ばし、頭を振って笑った。彼はエイミーに言った。「すぐ戻るよ、シュガー」

 私たちは、カルテットのメンバーがいる部屋に戻った。ピーナット、クランチ、レッドは立ち上がって一緒に外に出ようとしたので、私はアーサーに「俺が戻ってくるまで待て」と強く言って、目を丸くして驚いているジミーのほうは見ないようにした。ポールはボトルをテーブルの上に置き、私はポールとジョエルについて、三人ともコートを着ずに外へ出て、何も言わずに角のバーに入った。

 何も言わずに――だが、沈黙は多くを語るものである。ポールとジョエルは近くにすわった。二人とも無言だった。話すことができなかったのだ。嵐のような沈黙の中ですわりこんでいた。耐えきれぬ、しかし破ることのできぬ沈黙だった。クリスマスのことで、店にはほかの客はおらず、バーテンダーが人待ち顔だった。

 私は走り出したい気分だった。バーテンダーが前かがみになって近づいてくるのを見ながら、ポールとジョエルに言った。「ねえ、あいつらが待ってると思うんだけど。戻ってクリスマス・ディナーに行かせなきゃならないんだ。またここへ来たほうがいいかな」

 「そうだな」とポールは言った。「お母さんと彼らを待たせてはいかんな」

 それで私は来た道を戻り、階段を上り、ベルを鳴らした。ドアを開けたのはエイミーだった。

 「あら――ジョエルは?」と問いかける彼女の声は、今にも発作を起こしそうに震えていた。

 「おやじと一緒にいますよ」と私は言った。「二人で話しています。すぐ戻りますよ」。私はドアを後手に閉めて、キッチンのほうに歩いていった。エイミーはゆっくりと私のあとについてきた。調理する音のほか、キッチンからは何も聞こえてこなかった。フロレンスはビスケットを切っていた。ジュリアは長いブルーのドレスを着、腕組をして、高僧と不機嫌な少女が同居したような態度ですわっていた。

 「お父さんはどこ?」と彼女は私に尋ねた。

 「おやじと一緒」と答えて私はリビングに行った。

 「どこにいるのって聞いてるの!」とジュリアは私のうしろから声をかけた。

 私はキッチンに戻った。「二人で角のバーにいるよ。そんなに会いたけりゃ、その重たいケツを上げて、角のバーですわってりゃいいじゃないか。おじょうちゃん」

 「ホール」、フロレンスの小さな声が聞こえた。顔も上げす、手も休めなかった。

 頬のこけた顔の目をぎょろつかせてエイミーが言った。「あなた、だれと話してると思ってるの?」

 「ママは、クリスマスだってのに、キッチンで働きどおしじゃないか。だれと話してるかなんて構ったこっちゃないですよ。おかしいじゃないですか」

 「ママは病気なの」とジュリアが言った。

 「あんたは?」と私は言った。「どっか悪いのかね」

 「だからこうなるって言ったでしょう」と、フロレンスがつぶやくように言った。「言ったのに」。そして、油を敷いた紙にビスケットを並べ始めた。

 「私は」――ジュリアは言いかけてやめた。私は彼女の前に立って、上から下へジロリと眺めた。聖なるものを思い切り貶めるしぐさでやったつもりだ。彼女の聖なるクソ力は私には通用しない、お前のおやじは世にも憐れなピエロだと教えたかった。このときのエイミーの態度は不可解だった。彼女はジュリアのうしろに立ち、燃えるような顔、燃えるような目で、私の耳には届かない何かを聞いたようだった。「神よ、お助けください」と言って背を向けた。私はすぐにジュリアが13歳にすぎないことを思い出した。私が彼女の腕に触れると、彼女は身を引いた。彼女の目には今まで見られなかった変化が現れた。突然、私はぞっとして恥ずかしくなった。

 「お父さんを呼んでくるよ」と言って、リビングに戻った。