ジェームズ・ボールドウイン「頭のすぐ上に」抄訳(14)DELLぺーパーバックP152~

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ジェームス・ボールドウィン「頭のすぐ上に」抄訳とあらすじ

 フロレンスとマルタがミラー家を訪れたとき、ドアを開けたのはジョエルで、マルタがあとで言うところによれば、彼は二人を見て驚いたようすだった。 彼は上着を着ず、ひげも剃らず、マルタの目からは非常に弱々しく見えた。

 「こんばんわ、ブラザー・ミラー」とフロレンスは言った。「エイミーに用があって来たんです。起きていますか? まだ寝てるかしら」

 彼は軽く会釈して笑みを浮かべたが、何も言わなかった。二人が家の中に入ると、彼はドアを閉め、鍵をかけた。マルタとフロレンスは素早く目配せをした。

 「どうぞ、入って。楽にしてください」とジョエルは言って、二人をリビングに案内した。

 張りつめた空気があって、部屋の中は静かだった。

「こちらの若い人は病院の看護師さんで、ジャクソンさん――」

 マルタとジョエルはうなずくようにあいさつをして、ほほえんだ。ジョエルは微笑を浮かべて言った。「何か飲み物をお持ちしましょうか」

 フロレンスはいら立ち、驚いたようすで言った。「いえ、結構ですわ。ブラザー・ミラー。私たちが来たことを伝えていただければ、三人で出ます」彼女は驚きの表情を隠さずに「ジミーはどこにいるんです? ジュリアは?」

 ジョエルは慎重に答えた。「ジミーは映画を観に行ったんじゃないかな。ちょっと前に出て行った。ジュリアは――」彼は落ち着かないようすで上唇をかんだ。一瞬部屋中が静まり返って、ジョエルが何か言おうとする前に、フロレンスが「エイミーはどこにいるの?」と尋ねた。

 「ええと、ジュリアはね」とジョエルは言った。「彼女は母親を連れて、新しい教会の集会に行きました――この近くらしいんですが、場所はわからんです」

 「だけど、彼女はきょう私とジャクソンさんと病院へ行く約束をしたんですよ!」と、フロレンスは大きな声をだした。

 「それが……エイミーのことはよくごぞんじだと思うんですが、すぐ気が変わるんで、頭が痛いですよ」

 目のやり場に困ったマルタは、身体を硬くして、背もたれがまっすぐな椅子に腰をおろした。フロレンスは、ただ、じっとジョエルを見つめた。

 「ポールはどうしてますか?」とジョエルが言った。「きょうの午後来ると思ったんですが」

 彼は、自分では気づかずにポールに助けを求めているようだった。マルタは何か民族的な秘儀にとらわれて、今にも生贄の血を飲まされるように感じた。彼女は立ち上がって家の外に走り出したくなった。

 しかし、マルタよりはジョエルをよく知るフロレンスは、ジョエルをじっと見ていて、違う感じ――ストーブの弱火にかけられたフライパンの中の水のような、煮え切らない怒りを彼の中に感じた。

 彼女は突然、このぬるま湯のような怒りは、ジョエルの考え方や笑いにいつもつきまとっていることを理解した。彼女は、これは最近になって、だれかが彼の屈辱感に小さな火をつけたせいだと気づいたのだった。

 「ポールは仕事に行ったわ」とフロレンスは言った。「自分の出る幕じゃないと思ったのかしらね。それでいいのよ」彼女は立ち上がった。マルタも立ち上がった。「ジョエル、あなた、きのう、ちょうどこの部屋で、きょう私と一緒に病院に行くとエイミーに約束させたじゃないの!」

 「気が変わったですって! あきれてものが言えないわ!」

 フロレンスはジョエルを見つめた。

 「いつまでこんなことを続けるつもりなの? ジョエル」

 彼は黙って彼女を見つめるほかなかった――彼も当惑しているのだ。

 「その新しい教会ってのがどこにあるか知らないの?」

 「わからんです」ジョエルはソファに腰を下ろした。

「神様が、ある目的のためにおつくりになったと、ジュリアが言ってました――それでエイミーはえらく興奮していました。私が聞いてもジュリアは場所を言わんでしょう――秘密を守るかどうか信用できないというわけです」彼はフロレンスを見上げて笑った。彼女は、彼がそんなふうに笑うのを初めて見た。

 「ミルクと蜂蜜じゃなく、主とともに生きることです」   

 「特にあなたのお嬢さんの場合はね。あなたはジュリアに手を上げたことがないでしょうね」

 ジョエルは笑った。「あの子は本当にいい子なんです。そんな必要ないです。昔も今も」彼は立ち上がって窓のほうに歩いて行った。「二人はすぐに戻ってきますよ。ここでお待ちになってください」

 「いいえ」とフロレンスはゆっくり言った。「私たちがいる間は帰ってきませんよ」

 「ことの起こりは」と、ジョエルは唐突に言った。「エイミーが赤ん坊をなくしたからなんです――医師の診断ではすべて順調でした。医師は、注意して定期的に検査を受けるように言いました。私は受けているとばかり思っていました。ジュリアは赤ん坊のことを知りませんでした-――そのことでは驚いていました。彼女は母親のことを一生懸命気づかっていました。いつも一緒にいましたし、私は何も心配しませんでした。今は本当に心配していますけど」

 「エイミーをお母さんのところにやれないの?」と彼女は尋ねた。彼女は<ジュリアをベルビュー(精神病院)に>と付け加えようと思ったが、冷静を保った。

「エイミーと母親は離れていたほうがいいです」とジョエルは言った。

「エイミー、エイミーって、何を聞いてもエイミーなのね。あなた、一家の大黒柱でしょ?」

「この家はあのときに聖霊に乗っ取られたようなもんです」

 これにはフロレンスは何も言えなかった。マルタはお手上げといった顔で彼を見た。

しかし、フロレンスは、マルタが立ち上がり、二人でホールのほうへ歩いていく途中で、きっぱりと言った。「ジョエル、私、あなたの身になってよくよく考えたんだけど――聖霊のことよ。聖霊はその辺にいるアホ連中とは違うし、女心をもてあそぶものでもないし、家庭を破壊するものじゃないのよ」

ジョエルは二人のあとについてホールに入りながら言った。「いったい何の話です?」

フロレンスはドアのところで振り返り、彼と顔を合わせた。

 「わかってるはずよ」

 ジョエルはゆっくりとドアの止め金をはずした。冬の風がドアにあたり、ドアを押し戻すようにホールに流れ込んだ。

 「ちょうどそんなふうに」とフロレンスは言った。「今ドアを開けたように、奥さんを娘の手から取り戻すべきなんだわ。聖霊が家具の頭金を払ってくれるわけじゃなし、服を買ってくれるわけじゃないんだから」

 彼女はドアの外に出た。ジョエルはは干しぶどうのような目でじっと彼女を見た。

 マルタは言った。「さようなら、ミラーさん」彼女は褐色の石段の上に立って震えていた。