ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」 【あらすじ14】

(シドニーの店<ヨルダンの猫>に一人でいるときに、ホールが考えたこと)

   クリスマスに起きた出来事を考えてみると、ミラー家の際立った特徴というのは、ジュリアという13歳の伝道師がいることだけだ。しかし、本当はこのことが重要なのではない。問題は父親のジョエルにある。たとえば、私はジョエル・ミラーを立派な男だとは思っていないし、父のポールも、私の家族はみんなそう感じている。それは彼の信仰のせいではない。娘のせいではまったくない。父親が正しく娘を導けなければ、彼女はキリストの腕の中で安全であることはないのだ。ポールはジョエルを嫌っているが、それは彼を拒絶するということではなく、彼を引き上げようとしているのだった。ポールがそんなことをするのは、妻フロレンスへの愛――エイミーを何とかしようとするフロレンスの気持ちは、ジョエル抜きでは実現できないからだ。フロレンスにとっては、ジョエルの救済などどうでもいいし、聖霊の力を議論することも興味がない。聖霊は、ジョエルが病める妻を医師にみせるのをためらうこととは関係がない。聖霊をなじってどうなるというのだ。聖霊が病人を治す力をもっているというのは、すべて奇蹟によるのだ。我々はそれをよく知っている。天上のキリスト様は多忙でお疲れである。下界の我が身にそんな特別な下品な注意喚起をするのは、実際不必要だし、厚かましいし、思いやりがないというものである。

 しかし、このことは、苦しみの中にあり、特別な気高さをもつシスター・ミラー(エイミーのこと) に福音伝道者として一人の娘を授けたこととも関係がある。そう思うと、ホールのジュリアに対する見方も変わってきて、彼女を驚異の目で見るようになった。