ジェームズ・ボールドウイン「頭のすぐ上に」抄訳(13)DELLぺーパーバックP145
次の日、マルタと私は遅く起きた。二人の間に正しい行いなんてものは、実に全く何もなかった。普段は一日中ベッドにいるのだが、彼女はエイミーの家でママと会う約束があったので、あわててベッドから飛び降りた。激しく、熱く、飢えたようにセックスをしたが、愛し合ったとはいえない。何かが過ぎ去っていた。彼女も私も――私が彼女を導き、彼女が私を導き――絶頂に達したが、それは固く結ばれて抱きしめ合うあらゆる瞬間に、霧よりもなめらかで、はかない、鉄の表面に反射して輝く太陽よりもギラギラした空気の中、突き上げるたびに自らを苦悶に陥れる痙攣が起こり、言語に絶する谷間を渡って求め合い、互いの名を呼び合うことだった。ぶつかり合い押し合う衝撃は<どうしようもねえ、どうしようも、どうしようも、どうしようもねえ>と歌っているようだった。
私はベッドから降りて彼女を抱いた。彼女は私に背を向けて、窓のほうを向いた。彼女の暗い身体と頭は、ブラインドに当たる朝日のせいで、ぼやけて見えた。やがて、私は逃げるように彼女の身体から手を離し、しばらく立っていた。
「あなた、私が戻るまでここにいてくれる? 話があるの」
「いいよ。ただ、いつ戻ってくるかわからないんだろう?」
「ミラーさんのことだから、わからないけれど、たしか――」
「旦那もいるし、ジュリアや小さい弟――」
「あなたのお母さんが中心ですからね。私は嫌われないようにして、うまく――」
「男たちが寝ている間に。わかった。ケンカしないように頼むよ。いよいよというときには、猫のふぐりの臭いを思い出して」
「思い出すわ。あなたはここにいる? 帰りに買い物してきてもいいけど」
「買い物も料理もしなくていいよ。階段を上がってくるの、大変だろう? あとで一緒に出かけよう。君が帰ったとき僕がいなくても、帰ってくるよ」
「あなたは寝ているかもしれないし」
「眠たくなったら、帰って寝てるよ。じゃ」
彼女は私にキスし、私も彼女にキスした。私は本当にこの女を愛してる。何が悪いんだ。離れたくないし、どうしたらこのままでいられるのかもわからない。
「じゃ、あとで」
「あとで――心配しなくていいよ。ここにいるから」
「愛してるわ、ホール」
「僕もだよ、ベイビー。僕も愛してるよ」
彼女は元気よく出てゆき、私はマルタのベッドに戻ってしばらく眠った。
しばらくといっても短い時間だ。二日目のクリスマスの午後遅くだった。電話が鳴った。
私とマルタの関係は知られているし、マルタは留守だ――電話に出ようか――出ないと相手が心配する。ベッドに男がいたって、部屋に男がいたって、彼女の立場が悪くなることはあるまい――と思って、私はいつも電話に出ることにしている。
最初の電話はジョセフィンおばさんからだった。
「マルタはどうしたの?」
「出かけてます、ジョセフィンおばさん――僕、ホールですよ――」
「あら、王子様。マルタはあなたを置いて何しにでかけたの? あなたベッドにいるんでしょう!」
「そうです、ジョセフィンおばさん――でも――」
「彼女がチタランを買ってくるのを待ってるとでもいうの?」
私は笑った。ジョセフィンおばさんは悪気がなく私をからかっているんだとわかっていたが、私の笑いはそらぞらしく、腹立たしくなってきた。
「そうじゃないですよ。マルタはきょう僕の母と会う約束になっていて、二人でやることがあるんです」
「あなたのお母さん?」
「そうですよ。母がいますから」
「突っかかった言いかたするんじゃないの!」
「言ってませんよ。ただ、彼女は僕の母を手助けすると約束してくれました。ほかの人のためなんですが――二人は今ごろ病院にいるんじゃないかな」
「病院」と言ったとき、私は身体が石のようになって、目を大きく見開いた。
「ええ――あとで彼女が話すと思います。これは、まったく彼女と母のことで――で、今、彼女の帰りを待っているところなんです」
ちょっと沈黙があって「あなたたち二人、結婚したほうがいいわ。わかるでしょう? それが二人のためよ」
「彼女が僕と結婚したがっているなんて、わかるんですか?」
「まあ。黒んぼさん、お黙り――お母さんと相談しようかしら」と、ジョセフィンおばさんは笑って電話を切った。
私は受話器を置いて電話を見つめ、周囲を見回した。私はベッドの背もたれに寄りかかって、煙草に火をつけ、煙の向こうの、何とも言いようのない部屋を見つめた。高層ビルの6階の、三部屋のアパートの、信じられないくらい荷物があふれかえった、雄々しいとさえいえるベッドルーム。エレベーターは修理やフェラチオや泥棒、レイプ、殺人には便利で、屋上は乱交にもってこいだ。テラスは、絵に描いたような鼠どもの遊び場やゴミ捨て場になっている。
私は火のついた煙草を唇――乾いてひびが入り、血がにじんでいる――にくわえたままベッドから降りて、小便をしにいった。している間に電話が鳴った。あわてて小便をとめ、ノートルダムのせむし男みたいに小走りに寝室に戻った。
今度はアーサーからだった。
「ホール兄さん?」
「そうだ。どうした?」
「だいじょうぶだよ。マルタが、帰りが遅くなるようだったら兄さんに電話するようにって――僕だけ電話番に置いて出て行ったんだけど、だれからも電話こないし、遅くなるし――」
「何かあったのか?」
「わからないよ、兄さん。ママとパパがマルタ――本当にいい人だね、大好きさ――と出て行って、パパはミラーおじさんと話してるんだと思う。その間にマルタとママがミラーおばさんを病院に――」
「それで、ジュリアはどうしてる? それとジミーは?」
「わからないよ。家にいるんじゃないかな。ねえ、僕、出かけなきゃならないんだ。リハーサルがあるんだ」
「わかった。いいかい、お前が家を出る前にだれかから電話があったら、ここの電話番号を教えるんだ。そして、もし僕が出なかったら、ジュリアの家の角のバー――きのう、パパとミラーおじさんと僕が行った――ヨルダンの猫というシドニーの店にいるって言うんだ。シドニーってのは、ほら、お前もきのう会ったろう? わかった?」
「わかった。兄さんは家に帰ってくるの?」
「うん、あとでな」
「わあ、うれしいなあ」と言ってアーサーは電話を切った。
私はひげをそり、シャワーを浴びて服を着た。電話が鳴るのを待ちながら、酒を注いだ。家に電話をかけたがだれも出ない。病院にも電話をかけたが、何回かけても話し中か、呼んでもだれも出なかった。時刻は6時だ。夕闇がせまっていた。
はるか下の通りを見ると、人通りはなく、雪がちらついていたが、報復するように地面に落ちる前に黒くなっていた。
私はシドニーの店に電話をかけた。
「はい、ヨルダンの猫――」と、シドニーの声だった。
「ヘイ、ベイビー、ホールだよ。しばらくそこにいるかい?」
「ヘイ、ばかに早いじゃないか。俺は店にいるよ。来るかい?」
「うん、友だちが欲しい気分なんだ」
「急いで来いよ、ベイビー、ここにいるから」と言って、彼は電話を切った。