ジェームズ・ボールドウイン「頭のすぐ上に」抄訳(25)DELLぺーパーバックP296~

もう暗くなっていた。母の顔もほかの者の顔もよく見えなくなっていた。街灯

に明かりがついた。外の音楽や人の話し声がぼんやり聞こえる。

ポールが私のほう見て言った。「お母さんがジョエル探してと言うので、探しに行ったんだ。日が暮れるまで、一日中探し回ったが見つからない。職場にはいなかった。まさか家にはいないだろうと思ったが、行ってみたら警官がいて、危なく捕まるところだったよ。俺のことをあいつだと思ったらしいんだな。朝起きた事件と警察の捜査――やつらはマリファナを見つけて、もっとでかいヤクがあるとにらんだんだろう、家の中はメチャメチャで、まるで食肉処理場のようだった。ホール、窓や流しやソファに飛び散った血がまだそのまま残っていたよ。父親が実の娘にあんな仕打ちができるなんて信じられんて。頭のおかしなやつが家に帰ってきて、手当たりしだいにものを女房にぶつけたというんなら、まだわかる。警官の一人が、黒人だったが、「娘がまだ生きていたらラッキーだよ。この親子はもう元には戻らんだろうな」と言ってたよ。

「しかし、近所の連中はみんなあいつがやった――あいつ以外にありえないとはっきり言っている。部屋の中で騒動があって、そのあとあいつが出て行ったと言うんだな。それから、ジュリアが泣き叫ぶのが聞こえたと――ママがかけつけたときは、みんな集まっているところだったんだ――あいつがやったとみんな断言している」

「まったく信じられんよ。俺はジョエルのことを馬鹿にしてたんだけど――あんなことをしでかすとは思えん――とくにお前があいつのことをわかっている、あるいはわかっていると思っているとしたら、あいつと何度も酒を飲んだことがあり、女房や子どもと知り合いだったらなおさらだ。俺にも子どもがいるから――いや、とても信じられんよ。ところがさ、フロレンスはあいつがやったと思ってるんだな。ふだんは容易にものを信じないくせにな。おかしな話さ」彼は一息ついて、私を見、目をそらしてうつむいた。「信じられんが、とにかくあのハイエナをとっつかまえて監獄にぶちこんで、出てこれないようにしないとな」

「信じられないけれど」とフロレンスは言った。「わかっているのね、私と同じに」

「あいつが現れそうなブロードウェイのミュージシャンのたまり場へ行ってみたけど無駄だった。ヴィレッジも行ってみたけどみつからない。まさかとおもったが<ヨルダンの猫>にも行ってみた。へとへとになってあいつの家に戻ったよ」

「石段の一番上にすわっていたが、頭が混乱して考えがまとまらない。遅かれ早かれ、あいつは家に戻ってくるはずだと思ってベルも鳴らしてみた。警察もパトカーもいなくなっていたが、あいつが戻ってきたら、近所の連中がすぐ警察を呼ぶにきまってる。結局あいつは、年端もゆかぬシスター・ジュリアを働かせて頭が上がらない自分を、他人がどう思うかわからんくらいアホなんだ」

「石段の上でそんなことを考えていたが、自分が遅刻しそうなんで、<ヨルダンの猫>の数ブロック先の<ウインドウ・シェード>に行ったら、なんと、ジョエルがカウンターにすわってるじゃないか」

「俺があの店でピアノを弾いてるのをあいつが知ってるとは思わなかったし、まして俺を待ってるなんて思わなかったんで、たまげたよ。あいつの家に近いから、みつからないように這ってきたのか、家には帰れないし、かといって家から離れるのもいやだからあそこにしたのか、永遠に謎だな。俺の名前は窓に貼り出してあるが、あのときのあいつのようすだと、それを見て店に入ったようでもなかった」

「あいつは混乱していたが、よく見ないとわからんくらいだった。顔のかすり傷から血が出ていて、上唇が腫れていた――が事件を知らなきゃ大したことじゃなくて、ちょっと酒を飲み過ぎたくらいの感じだったな」

「近寄って行くと、あいつは俺を見てこう言ったよ。「ポール、よく来てくれた。話があるんだ」何も言わずにいると「朝方、家に押し入ったやつらがいてな。強盗がジュリアに悪さをするんじゃないかと思ったんだ」俺はじっとあいつを見つめていた。「俺が最初に何を思ったかわかるか?ポールこんなことは言いたくねえんだが、娘のジュリアは――あいつは泣き出した――母親が死んでから神経をやられちまってな、人が変わっちまったんだ。たった一人の娘のことをこんなふうに言いたくねえんだが、街で客を拾う売春婦になっちまったんだ。朝押し入ったのはポン引きの一人で、ジュリアをぶちのめしやがった。たった一人の娘をよ。信じられるか?おまけにジュリアに不利な証言をしろってえんだ。そんなこと、できるわけねえ。血肉をわけた娘に不利な証言なんて、できるわけねえよな。聖書にも聖霊に対する罪だと書いてある。許されるこっちゃねえ」あいつは心底泣いていたよ。本物の涙が指の間からながれ、肩が震えていた」

「ジョエルは知ってるかどうかわからんが、あの店にはジョエルの家と同じビルのやつが何人もいるんだよ。警察はすぐにあいつを捕まえるだろう。俺は怒る気もなくなってしまったよ。あいつは本当に自分の話を信じていた。俺はあいつをそのままにしてピアノに向かったよ。警察が店に踏み込んだわけじゃないが、やつらはその晩のうちにあいつを捕まえた。だが、留置はできなかった」彼はフロレンスを見た。「目撃者がいないし、ジュリアは話さない。話せるようになるころは、あの子はニューオリンズ――おばあちゃんがあの子に気合いを入れてるさ」

しばらくの間、だれも口を開かなかった。私はフロレンスが何を考えているの

かと思った。ジュリアの母親はフロレンスの古い友人であり、ニューオリンズのおばあちゃんから見れば、かわいい孫娘なのだ。フロレンスは記憶をたどりながら、何か見逃していることはないかと、事件の鍵を探しているようだった。

「そうね」とフロレンスはやっと口を開いた。「ジュリアは父親の不利になるようなことはしゃべらないわよ――それはジョエルがあの子の父親というだけじゃないから。とにかく」と彼女はすぐに付け加えた。「絶対しゃべらないわよ。みんなそれを尊重しなくちゃね」

「クランチの子なんだよ」とアーサーが言った。「彼女が話せるようになった

とき、病院で彼女から聞いた」

私は尋ねた。「ジミーとおばあちゃんを一緒にこっちへ連れてくるというの

は?」

「それは無理よ」とフロレンスが言った。「いったい何のために?あっちには親戚が大勢いるのよ」

「ジミーはかわいそうに」とアーサーが言った。

「ひとつ確かなことはさ」私は言った。「クランチの子であってほしいという切実な願いなんだろうなあ」

アーサーは私を見て、力強くうなづいた。彼の目は大きく、明るく、今まで見たことがないくらい大人びていた。