翻訳小説 グレアム・スイフト「ヒポコンデリア」6

 

  冬の中ごろの夕方で、外は暗くなっていた。診察室からもれる灯りが砂利道を照らしていた。彼はとぼとぼと歩いていったが、三歩か四歩行くと、一瞬立ちどまって、私のほうを振り返った。このとき、突然私は子供のころの奇妙な、強烈な記憶を思い出した。 十ー歳のころだったと思う。暖かい夏の日曜日で、家族が全部庭に集まっていた。何かの用事で私がキッチンに入ると、飼い猫のガスが死んでいた。足をまっすぐ伸ばして、タイルの上に横たわっていた。死んでいるのがわかったが、私はそれまでこれほどはっきりした死というものに直面したことがなかった。私はあわてた。あわてたのは、ガスの死そのものより、私が最初に発見したということで、何か私に責任があるような気がしたからだ。どうしていいかわからなかった。私はただ庭にもどり、何も見なかったようなふりをして動揺を隠し、早くだれかが見つけてくれればいいと思った。だが、キッチンを抜け出して忍び足で小道を歩きはじめたとき、私は思わず振り返って猫の死骸を見てしまった。猫が幽霊のように起き上がって、臆病な私の罪をなじるような気がした。

    Mが立ち去っていくのを見たとき、この記憶がよみがえったのだ。それはただの記憶というより、私の眼前にまざまざと再現された。少年の私が、窓の外から、今Mを見ている私を見返したような気がした。

 私は机にもどり腰をおろした。

  「いったいどうしたんですか」と受付の女の子が隣の事務室からやってきて言った。私の叫び声が聞こえたに違いない。              

  「だいじょうぶだよ、スーザン。何でもない。次の人を入れるのをちょっと待ってくれないか」

 彼女は出ていった。私はしばらく机の上で頭を抱えていた。診療所は住まいの脇に張り出しているので、ここから家の窓が斜めに見える。向こうからもこちらが同じように見えるわけだ。私は机の前のブラインドを上げて、いつもバ―バラのいる一階の窓の灯りを見た。バーバラの姿を見たいと思った。それから大きく深呼吸をし、次の患者を呼ぶブザーを押した。 

 その晩は、診察が終わるとすぐに妻のところに行った。彼女の腰に手を回して、やさしく抱きしめたかった。ところが、「いったいどうしたの」と先に言われて、出鼻をくじかれてしまった。彼女はキッチンタオルで手をふきながら廊下に立っていた。Mをどなりつけたあとで興奮したように見えたのだろう。彼女は私のほうに近寄ってきて、私の前を歩きながらリビングに向かった。

「ちょっとすわったら。何だかようすが変よ」

 どちらが年上かわからないような言われかたをして、私は驚いた。結婚したてのころに、年が離れていることの意味が明らかになったとき、彼女は自分の役割を模索したのだ。そして、いつか将来、若い体力ある妻として、ふけ込んだ夫に注意深い、いたわるようなまなざしを向け、緊張や過労から守ることを白分のつとめとした。私としては、そんなふうに見られるごとはごめんこうむりたかった。彼女は、私を椅子のほうに導いた。奇妙なことだった。何か仕掛けがあるのではないか。私は医師だ。彼女は私を見て、様子が変だと言う。彼女を落ち着かせるのが私の役目ではないか。私の肩を押さえてすわらせようとするので、手を払いのけて言った。

  「だいじょうぶだ。何でもない」                

 彼女は刺すようなまなざしで私を見た。         

  「それならいいわ」と彼女は言った。その表情は暗く、うつろだった。

 

 その夜は、Mの顔が頭から離れなかった。 学生のころ、 解剖の授業で切断した死体の顔に似ていた。なぜ覚えているかというと、解剖に使われる死体は老人ばかりなのに、たまたま若い男の死体だったからだ。ほとんどの学生が解剖室で気分が悪くなったり、吐いたりするのに、私は平気だった。だが、そのやせ型の青年の死体のときは、たびたび手をとめざるを得なかった。解剖の講師は冗談めかして言った。「君と同じくらいの年だね、コリンズ君」

 その青年の顔がMと似ているのだ。だが、その妄想を私は頭から振り払った。

 

  二、三日後の朝、うんざりするような電話があった。Mの代理だと名乗る若い女性か

らだった。Mと同じアパートに住む女性で、Mが病気で私の電話番号を教えたというの

だ。また例の芝居でアパートの住人の注意を引くようなことをやったに違いない。彼は

今、私の診療所には出入り禁止になっている。その経緯を説明して私の立場を理解して

もらうのは電話では無理だった。Mのところへ行くのを拒絶するのも難しかった。私は

午後に往診に行かなければならないところがあると言った。時計を見ると、十一時ちょっと前だった。怒りのあまり、Mの症状を聞くという当たり前のこともやらなかった。

  「彼はだいぶ悪いみたいですよ。すぐ来ていただけませんか」

  「みんな芝居なんですよ。ばかだな。 ほうっておきなさい」と言いたかったが言えな

かった。彼女声は真剣だった。私ははっきり答えた。「忙しいんですよ。四時前には行けそうにないですが、そのあとでいいですか」。そして受話器をたたきつけるように電話を切った。

 実際、その午後、何軒か往診に行った。非常に重篤な病人もいたし、たいして緊急でないものもあった。まず第一に緊急な病人を手当てするのが私の務めであることはわかっていた。救急患者 !  私はMのところへ行くべきかどうか決めかねていた。すべての往診を終えてから私は決心した。ふだんは四時までに診察を終えて休憩し、五時からまた診察を開始することになっていた。