翻訳小説 グレアム・スイフト「ヒポコンデリア」8

家に帰っていつもより遅く診察を再開したが、Mのことは何も心配していなかった。だが、妙な胸騒ぎがして、六時に聖レオナルド病院に電話をしてみた。

この時間の救急主任はだれだかわかっていた。

 「トニーかい。私だよ。アラン・コリンズだ。私の患者がそちらに行ったろう。Mというんだけど」

 「うん、来たけどね。死んだよ」

 「死んだ?」            

 しばらく何も言えなかった。トニーが冗談を言っているのかと思った。

 「一時間くらい前だ。来たときはもう危篤だったよ。君は彼の総合診療医なの?」

 「だけど、どうして」

 「こちらが聞きたいくらいだよ」 

 

 Mが死んだことは妻には言わなかった。事態を理解し、検視・解剖報告(Mの死について、突然の昏睡と呼吸不全と書いてあるだけで、それ以上の結論に達していなかった)と、医師として私がMに行った治療に対する調査に向き合うまで十日ぐらいかかった。これらのすべてを通して、何かが私の中で砕け、私が、それまでよりどころにしていたものが崩れるのを感じた。こんな患者がいたよな、と自分で自分に言ってみるときもあった。私は口をきかなくなり引きこもりがちになった。夕方の診察が終わっても、診察室に閉じこもっていた。そんな変化にスーザンも患者も、もちろんバーバラも気づいた。バーバラにすべてを話して慰めてもらったらどんなによかったろう。しかし、過去に私に手を差し伸べてくれたときに、はねつけてしまった。しかも、数週間前にMにどこも悪いところはないときっぱりと言い切ったのは私なのだ。いろいろあってうまく言えないが、私は急に妻が妊娠していることがこわくなったのだ。なぜだかわからない。私の心が空虚になった分、彼女の腹がふくらんだようなものだ。

 そんな状態の私に対して、バーバラは冷淡と無関心そのものだった。二月のことだった。彼女は妊娠七ヵ月になっていた。 ある晩、彼女はベッドに横になったまま泣き出した。長く、重い、すべてに見離されたような、息もたえだえという泣き方だった。私が抱きしめようとすると、彼女の泣き声はうめき声に変った。「彼の子供なの、わかっているのよ」。それきり、何も言わずに泣き続けた。泣き声は次第に大きくなり、両手で顔を覆い、身体をふるわせておそろしい声でうめき続けた。私は耳をふさいでしまいたかった。危機のときには、苦痛や叫び声を無視するにかぎる、と自分自身に言い聞かせた。私はパジャマ姿で妻のそばにすわり、彼女の嗚咽を静めるように彼女を抑えた。彼女の言うことを信じていいかどうかわからなかった。しばらくして私は言った。「僕の子だったらよかったのに」。彼女は起き上がり、私のほうに向き直った。涙でぐしゃぐしゃになった顔は、エイリアンかモンスターのようだった。「あなたの子だったらなお悪いわよ」。そして私が目をそらすまで、力をこめた手で顔を覆っていた。

 

 翌朝、診察室で、私は患者の視線を避けるようにして仕事をした。処方箋つづりの上の一枚を荒々しくむしりとるようなことをした。患者たちは何があったのかと驚いたことだろう。早く診察を終えてしまいたかったが、生命をすり減らすような厳しい寒さの続いた晩冬のことで、咳とリウマチの痛みを訴える患者が際限もなく続いた。あと十五人くらいの患者が残っていたろうか、私は次の患者を呼ぶブザーを押した。ファイリング・キャビネットに書類を戻すために立ち上がった。だれか入ってきたが、キャビネットの中をのぞき込んでいたので、だれかわからなかった。「ちょっと待って」と言って振り返り、入ってきた人物を見たとたん、崩れ落ちてしまった。床から抱き起こされて椅子に座らされたが、待合室から送り出される患者たちが見えた。スーザンがかがみ込んで私を見ていた。バーバラがやってきた。

 私はМを見たのだ。

 

 私は今、リビングで窓際のひじ掛け椅子に座っている。電話と薬がそばのテーブルに置いてある。ブラインドの隙間から診療所を見ると、代診を頼んだメイソンが机に向かっているのが見える。患者を診に行くと見えなくなる。私の幽霊のようだ。  彼に代診を頼んでから十週間になる。臨時に頼んだつもりなのだが、もう私には医師としての仕事は無理だと思っているかもしれない。仕事を忘れた長期の休養が必要だと言われた。私が自身を診断したとしたら、どういう診断を下すかわからない。最初に私を診たのは、いわば私の同僚たちである。医師の治療をして喜ぶ医師はいないが、彼らのやりにくそうな顔を見ると、私の状態はあまりよくなさそうだ。それにバーバラのことがある。彼女は自分自身を気づかわなければならないのに、かいがいしく私に尽くしてくれた。彼女の言う通りにするしかない。何かが変化した。この十週間、彼女は幸せなのだろう。私にはわからない。しばらくは、彼女の子供のようにふるまうしかない。