ジェームス・ボールドウィン「頭のすぐ上に」抄訳(6)DELLベーパーバツクP61

  店に入ったとたん、場違いなところに踏み込んだ気がした。私たちは奥の席にすわった。ジュークボックスの音が大きく、客も大声で話していた。

アーサーはびしょ濡れの頭や髪を拭くのにトイレに入った。年配のメイドがにこにこしながら近づいてきた。

「あの人、歌手でしょう?」

「そう。弟なんだ」

「名前は何ていうの?」

「アーサー・モンタナ」

「そうそう、あの人だわ。妹がよく話してる。きれいな声ねえ。本当に弟さんなの?」

「何だい、疑うのかい」

「口から出まかせ言う人が多いから。いい声してるって彼に言ってね。ララビー師の教会で妹と一緒に聞いたわ」

彼女は注文をとって離れていった。「――ゴスペルシンガーだってか。みんなの魂を救ってもらおうじゃないの」とだれかが言うのが聞こえた。一斉に笑いが起こった。「あいつは雨に濡れてるじゃないか。普通の人間だぜ」「のども乾くようだ」「だれが見たって牧師じゃねえよ」「『雨じゃなかった』を歌ってもらおうか」「罰当たりな人たちね」とメイドが静かに言った。「普通の人なのよ」。みんながどっと笑った。「説教してくれ、ミニー」。ダイナ・ワシントンとブルック・ベントンが<ロッキング・グッドウエイ>を歌っていた。「そういや、ダイナはゴスペル出身だったな」とだれかが言った。

アーサーが乾ききっていない髪で戻ってきた――私の髪も同じだった――そして、上着を脱いですわった。メイドがテーブルにトレイをおき「濡れてるものをこちらへ」と言って、私の帽子とコート、アーサーの上着を取って近くのテーブルに乗せた。「これでよし」と言って彼女は私たちに酒を注いだ。

「ありがとう」とアーサーは言った。

ウイスキーできれいな声をこわさないでね」と言って、彼女はカウンターの後ろに入っていった。

「僕のことを話したのかい?」

「ララビー牧師のところでお前の歌を聞いたんだとさ。ここにいるみんなも知ってるよ」

アーサーは驚いたようだった。それから――仕方なしに――うれしそうな顔になり、また考え込んだ。彼は煙草に火をつけた。

「煙草できれいな声をこわさないでね」と私は言った。

アーサーはにやりと笑ったが、急に十歳も老けたような顔になって言った。「ふざけないでよ」。なぜかわからないが。私は彼の靴――白と茶のスニーカー――のひもを結んでやったことを思い出した。

「ふざけていないさ。有名になったのさ」

「僕が有名になったって?」

「そうさ。そのとおり」と言ったとき、弟と私の間に、一瞬、冷たい風が吹き抜けたような気がした。こんなことは初めてだった。その隙にジュークボックスの音と客のざわめきが滑り込んだ。アーサーは目をあげてカウンターのほうを見た。見慣れないものを見たか、聞き慣れない音を聞いたようだった。

私はアーサーと対面していて、バーは後ろにあるので、彼が何を見ているのかわからなかった。振り返ると、灰色の髪で黄色い歯の男が、間抜け面してにたにた笑っていた。そいつは私たちが店に入ったときからカウンターの端に立っていて、破けた黒いレインコートを着て、前かがみになって両手でグラスを包むように握っている。その近くのスツールに、どっしりした黒人女性がすわっている。濃い紫の口紅をしているので、血を流しているように見える。灰色の髪の男とは顔見知りかもしれないが、距離を置こうとしているようだ。男の内心の欲望は、残忍なにたにた笑いに現れているのかもしれない。その欲求不満の男の隣には茶色のスーツを着た黄ばんだ肌の男がいて、隣の男同様、血にぬれたような唇の女を無視している(しようと努めている)。その次は背の高いあごの長い男だ。ツイードらしい明るいからし色の上着を着て、火のついていないパイプを持ち、眼鏡がカーゲームの<神の怒り>よりも光り、神経質そうな指には重そうな指輪が輝きを放っている。足でタップを踏んでいるが、流れている音楽に合っていない。その隣に二人の女の子と二人の男の子が立っている。退屈まぎれにジュークボックスで盛り上がっているのだ。次に、デブの男が立ってビールをちびりちびりやっている。その隣は、黄色いブラウス、長いブルーのスカートの女がむっつりすわっている。学校の教師風の男が二人、壁を背にしてしゃべっているが、コーデュロイのズボンをはいた背の高い男の子に関心があるらしい。その子は一人でバーの前に立っていて、バーテンの友だちらしい。口ひげをはやして、背の低いずんぐりした陽気なバーテンは、暇さえあれば、この男の子と話し込んでいる。一組の男女が互いに無言で窓際に席をとっている。窓の外は相変わらず雨だ。メイドは客と話しながら、周囲に気を配り、ときどきバーの後ろに入って在庫をチェックし、バーテンを地下にやっている。音楽は際限なくつづき、雨も際限なく降っている。話し声は、高くなり低くなり、増水した川がダムを求めて流れているようだ。ボトルはカードゲームにある「曇り鏡」のように光を放っている。キャッシュレジスターは、囚人に判決や釈放を知らせるベルのように、間隔をおいて鳴っている。ドアは人の出入りにしたがって開閉しているが、入ってくる客が多い。壁に掛けてある時計は2時15分を指している。その下には、マルコムXの鉛筆画がある。

アーサーは私のほうに視線をもどして言った。

「どっちにしろ、兄さんは僕が有名になるのを期待しているんだろう?僕には兄さんしかいないんだ」

「よせよ」と私は言った。

彼はにやりと笑った。その笑いは私に刺さるように感じた。実際、心のどこかで痛みを感じた。「そうじゃないか。兄さんにはルースがいるし、トニーが名札とおしめをして病院にいるじゃないか。だけど、僕には、僕には兄さんだけなんだ」。彼はまたにやりと笑った。今度は明るい笑いだった。「怒らないでよ。僕の願いなんか、ごくささやかなものさ」

「くそみたいなもんに取り囲まれているが、わからないのか?」

「ゴスペル歌手にそんなこと言うなよ」 

二人で一緒に噴き出した。「もう一杯飲もうぜ。お前とうろついている間にずいぶん飲んだよ」

「そうだね。二人の新しい生活にお祝いしよう」

彼はバーのほうを見た。灯台の灯がぐるっと回ってくるのを待っていたように、メイドはすぐにやってきた。

「お願いね」と彼女はグラスを取り上げながら言った。「くれぐれも声を大事にね」

「だいじょうぶだよ。兄貴がついてるんだ」

彼女はまだ心配そうだったが、私を見てからまたアーサーを見た。「兄弟二人だけなの?」

「そうだよ」

彼女は私を見た。「そう、それじゃ安心ね」

 

その安っぽいバーを出て――雨はまだ降っていた――118番街の地下の深夜バーに入った。その店では、みんながアーサーを知っていた。私にはそんなふうに見えた。だれがアーサーを知っていて、だれが知らないか、判断に迷ったのはこのときが最後だった。アーサーと一緒にいて飲み過ぎたのも、このときが最後だった。このときに、弟は私のもとを離れて自分の世界に入っていったのだった。あの夜は飲み過ぎてしまったが、私が酔っているときでないとわかってもらえないようなことを、アーサーは言おうとしていたのだ。

あるいは、トニーが二日前の夜に生まれていなかったとしたら。誕生の喜びと驚き、畏れと誇りが私の中で躍動して、私は新しい生活に入り、弟もそうなったのだった。トニーは、目をしっかり閉じて手を握りしめ、むっちりした足をばたばたさせて、産み落とされた荒々しい世界に抗っていた。まさか、アーサーがそんな状態だったなんて……。

(第一部「頭のすぐ上に」終了。第二部「街への12の門」へ続く)