ジェームズ・ボールドウイン「頭のすぐ上に」抄訳(22)DELLぺーパーバックP233~
「初めに聞きたいことがあるんだよ、アーサー」――クランチはすわり直してアーサーの背中に話しかけた――「俺がいなくなったらどうするつもりなんだ?」
「わからないよ、クランチ。そんなこと、考えたくもない」
「考えなきゃだめなんだ!」
彼は手を伸ばして足元にすわっていたアーサーの顔を彼のほうに向けさせたが、その手がアーサーの涙で濡れた。アーサーは何も言わず、顔を元に戻して、頭をクランチの膝にもたせかけた。
「わからないよ、クランチ。今と同じように学校に通って、音楽の勉強を続けながら君の帰りを待つよ」
<で、もし俺が戻ってこなかったら?>とクランチは言いたかった。だが、「それで、どうなんだ――」と言いかけたときに、アパートの外の駅にアップタウン行きの電車が入り、部屋の中にまで轟音が響きわたった。
「どうなんだって、何がさ」
「ほかの人のことさ」
「ほかの人って?」
「アーサー、女の子とつき合ったこと――ないだろうなあ」
「いったい、何の話?」
「女の子とつき合ったほうがいいかもって話さ」
「うん、いつかはきっとそうなると思うけど」
彼は手の甲で涙をぬぐって、クランチを見た。
「なぜ今そんな話をするの?」
クランチが苦しそうな顔になったとき、アップタウン行の電車が窓の外を通過し、アパート全体が揺れた。
「俺がいなくなったら、かわりに女の子を好きになってもらいたいんだ」
「男、違う男じゃなくて?」アーサーは床に視線を落とした。「そんなこと考えたこともないよ、クランチ。僕は君だけを愛してる」
「永久に俺だけを愛するなんてできっこないだろう。お前は嫌でもおとなになっていくんだ」そして、クセンチは立ち上がって窓に歩み寄り、外をながめた。
「話ってそんなこと?」
「うん。いや違う」
「なぜ僕がクランチを永久に愛することができないなんて言うの?僕はできると思う」
「アーサーお前はまだネンネなんだよ。いつかはきっと――」
「後悔してるの?僕たちの関係を」
「違う違う、アーサー、そんなふうにとらないでくれ。俺はただ、お前の将来を心配してるんだ。幸せになってもらいたいんだ。俺は――」彼は口ごもった。窓の外は信じられないくらい静かだった――「俺はお前が後悔するんじゃないかと……」
「僕たちのことを後悔?絶対そんなことないよ。何が起きても」
「きょうの午後、俺はジュリアと寝たんだよ」
クランチは突然、だれかが押し倒したようにベッドに仰向けになった。彼の顔は恐怖と苦痛に満ちていた。
アーサーは床に視線を戻した。彼は尋ねた。「それで、今夜、ジュリアをここに連れてこようとしてるの?」そしてクランチを見て、「さっきからはっきり言わないのは、そのせいなんだね」
「違う。今夜連れてこようなんて思ってない」
「連れてくればいいじゃないか。僕に気がねしないで、好きにしていいんだよ。自分に女の子ができたもんだから、僕にも女の子を見つけろなんて!」
「アーサー、ジュリアはまだほんの子ども――」
「そんなこと言って、よくジュリアと寝られたもんだね。僕のことは、まだほんの子どもとは思っちゃいないんだ!」
「アーサー、聞いてくれ、たのむ、お願いだ」
アーサーは立ち上がり、ポケットに手を突っ込んで窓のほうに歩いていった。クランチからは彼の顔は見えなかった。
「アーサー?」
「聞こえてるよ」
「こっちへ来てくれよ」
アーサーは動かなかった。
「こっちへ来てくれったら」
近づいてきたアーサーをクランチがつかんでベッドに引き倒した。クランチが枕に頭をのせ、アーサーの頭を胸にかかえるかっこうになった。
「アーサー、頼むから聞いてくれ。怒らないでくれ。いいとか悪いとか、プライドのほうにもっていかないで。その気になれば女の子をここに連れてくることはできるさ。お前だってそうだ。それに、俺に女の子ができたからお前に女の子と付き合えなんて言ったんじゃない。俺に女の子なんかいない」彼は少し間をおいて、ごくりとつばを飲み込んだ。「俺にはお前しかいないよ」
沈黙しているアーサーの心の動きをおしはかるのは不可能だったし、クランチはアーサーの顔の向きを変えて表情を見るのが怖かった。
「アーサー、お前は自分ではわかってないだろうが、すごくかわいいんだ。お前と寝たがって言い寄ってくるやつが大勢いると思う。こんなこと言って気を悪くしないでくれ」
「それがジュリアと寝たことと何の関係があるの?」
「アーサー、トラブルに巻き込まれると、だれでも助けが必要になるんだ――それはわかるだろう?」
アーサーが彼の言葉に耳を傾けているのは確かだった。彼はアーサーを抱く手に力をこめた。だが、次に何を言うべきか、わからなかった――彼の気持ちをどう伝えたらいいか、わからなかったのだ。彼はジュリアの顔や、懸命に彼を求める姿態を思った。彼は言った。「自分を支えてくれる腕がほしくなるときがあるんだ。そんなときは何が起きるかわからん――あるできごとが次のできごとを呼ぶ――わかるだろう?」
「そうだと思うよ」
「誓って言うが、お前を傷つけるつもりはないんだ」
アーサーは無言だった。
「わかってくれるよな」
「うん、でも――わからないんだ――」
「全部話すことはできないけれど、言いわけしようってんじゃないんだ。ジュリアが困ってるんだ。おやじさんから離れなきゃいけない。お前のママがジュリアに泊まっていけと言ってくれたのは、本当によかったと思っている」
「クランチ、ジュリアをここに連れてくるって決めたわけじゃないんだね――もし――」
「決めてないよ。少なくとも今夜はね。最初にそれを言えばよかったな。頭をかち割られるような目にあいたくないからなあ」彼は煙草に火をつけて言った。「アーサー」
「なに?」
「聞いてるかい?」
「聞いてるよ」
「頼みがあるんだ――力をかしてもらいたい。いいかい?」
「いいよ」
「ジュリアから目が離せないんだ。彼女と友だちになってくれ。きょうのことは忘れてくれ。たいしたことじゃないんだ。それが人生なんだ。お前も少しずつわかるようになるよ」と言ってクランチはほほえんだ。
「僕にどうしろっていうの?」
「彼女の友だちでいてくれ。おやじさんから引き離さなきゃいけないんだ」
アーサーは向きを変えて、クランチの顔を見た。
「そんなにひどいの?」
「最悪だよ」
「ジュリアはどうしたいのかな」
「弟の世話をしたいと言ってたじゃないか」
「だけど、できないって――まだ子どもだもの」
クランチは煙草をもみ消した。彼は暗い顔でアーサーを見おろした。「わかるもんか。おとなだって背負いきれないものを背負ってるんだ」
アーサーは無言だった。やがて、はにかんで言った。「クランチ、ジュリアを愛してるの?それならそれでいいじゃないか。やきもちなんかやかないよ」
クランチはにやりと笑った。「そうかい。さっきとようすが違うじゃないか」
「さっきは驚いたんだよ」
「あれが驚いたときの態度なら、誕生日のプレゼントのサプライズはやめたほうがいいかな」
「やめてよ。クランチ――」
「きょう、俺はずっと考えていたんだ。俺たち三人のことだけど、彼女14歳だ。お前は16歳で俺はもうすぐ20歳。ずいぶん年をとったような気がするよ。いやなじじいだ。だけど、消えるか死ぬか、それしかなかっただろう。あの子は泣いてたよ、アーサー。泣いてたんだ」彼は苦しかった一日を思い返して肩をすくめた。彼はアーサーを見おろした。「俺にとって、彼女はお前とは違う意味がある。今は、それを素直にわかってほしいんだ。彼女はトラブルに巻き込まれていて、危険なんだ。彼女に力をかしてやってくれ。お前やお前の家族が彼女を支えてくれれば、事情はずいぶん違ってくるよ」
彼はアーサーを見て、二人の間のわだかまりがとけたのを感じた。本当のことを話したので、ジュリアを裏切らずにすんだ。彼はベッドの上に身体を伸ばし、アーサーを抱き寄せた。
「だけど、あんまり好きじゃないんだなあ」
クランチは笑った。「少しずつでいいんだ、息子よ。少しずつで」
ジェームズ・ボールドウィン「頭のすぐ上に」 【あらすじ22】
それから一週間後に、クランチは召集に応じてニューヨークを去った。夏が終わり、秋も過ぎて、人通りがめっきり少なくなった街を歩くアーサーの頭の中には、ゴスペル「新しい年が来る前に」が響き渡っていた。クランチは死んでしまうかもしれない。戻ってくるかもしれない。学校に通うときも、リハーサルのときも、週末に教会で歌うときも、ウエスタン・ユニオンでメッセンジャーのアルバイトをするときも、クランチに見守られているような気がした。クランチが軍法会議にかけられたり、拷問されたりする夢を見るので、アーサー自身は平静をよそおってはいても、両親が心配しているのはわかっていた。
<私の歩む道を明るく照らし、重荷を軽くしてください。私の行いがすべて正しくあるようにお導きください。主のおそばにいることで私の心が喜びにふるえ、主の聖なる魂が私をみたし、主の広大無辺の御手が私をすくいとらんことを>と、部屋で歌っているとき、「その歌はお前にとって大きな意味があるようだね」父親のポールが言った。二人の間でクランチが話題となる。「クランチはホールと同じ、兄貴のようなものだろう?」と言うポールに対して、アーサーは「クランチは友だちだよ。兄弟より大事な友だちって、いないのかな」と、そっけなく答える。それに対してポールは、家族より他人が大切になることもあると、次のような話をする。
「たとえば、お前がある女性と結婚したとする。彼女はママや私より大切な存在となるだろう。お前は彼女とともに生活し、子どもを育てるのだ。消えてゆく私たちはお前をたよりにすることはできないし、お前も私たちをたよりにすることはできない。だれも後ろ向きに歩くことはできないのだよ。」