ジェームズ・ボールドウイン「頭のすぐ上に」抄訳(17)DELLぺーパーバックP187~

クランチのベッドほうを見ると、彼は両手を頭のうしろに組んであくびをしていた。

クランチのベッドのそばの窓は通りに面していた――窓には日除けとカーテンがあり、カーテンは閉められていたが、アーサーは樹木のそよぎを感じた。アーサーのベッドは壁際にあり、その向こうはホールとバスルームとキッチンになっていた。

静かな夜だった。重苦しい張りつめた南部の静寂。平穏でなければならないが、実はそうではない。静寂を破って悲鳴が聞こえるかもしれない。明日が怖ろしいのだ。

「あしたは何時にここを出発するのかな、クランチ」

「おやじは6時には出発できるように用意しとけと言ってたと思う」

「こっちに来てよかったと思ってる?君の考えだけど」

「何か僕を責めたいことでもあるのかい?」

「そんなんじゃないよ。僕は無事だし、君が僕に銃を突きつけたわけじゃないし、何で僕が君を責めなきゃいけないのさ。ちょっと聞いてみただけだよ」

「こう考えたらどうかな、アーサー――僕たちは働いて、少しだけど――ほんの少しだけどパン代を稼いだ。君は才能がある。だけど、僕たちは都会じゃまだ何もやっていない。僕たちは勉強中なんだ。少なくとも僕は、みんな勉強中だと思っている――そして、ひもじい思いもしていないし、空気はおいしい、ベイビー、そいつを忘れちゃいけない。そいつがとても大事なんだ――おまけに、かわい娘ちゃんがおやじさんの車でぐるっと案内してくれるというわけさ!」

アーサーはクランチに枕を投げた。彼は笑いながらそれを投げ返した。「だからさ、僕は来てよかったと思ってるよ」彼は静かな悲しげな微笑を浮かべてアーサーを見た。「車でぐるぐる回っただけだけど。本当にそれだけなんだ――彼女は景色のいいところや山を見せてくれた。本当にいい娘だったなあ。きょうは、この辺のことを少し勉強したよ」彼は起き上がって煙草に火をつけ、箱とマッチをアーサーに投げた。アーサーは煙草に火をつけ、箱とマッチをクランチに投げ返した。「君の聞きたいことはわかるけど、答えられないんだ。こっちのことは僕もわかっちゃいないんだ」

「怖くないかい?」

「わからないってことは怖いよな。黙ってるとよけい怖くなるんだ」

アーサーは煙草を吸いながら考え込んだ。部屋には小さな照明が一つあるだけで、二人の煙草の火がオレンジ色の弱い光を放っていた。二人は声をひそめて話していた。車が一台、燃え上がる炎のような音をたてて外の通りを走っていった。

それからまた静かになった。クランチは煙草を指の間にゆるくはさんで、肘を膝についてすわり、まっすぐ前を見ていた。

「だけど、こっちへ来て、僕の中で何かが起きたような気がするんだ」と彼は言った。「初めてこっちへ来たのに、何だかよくわからないけれど」――彼はアーサーのほうへ向き直った。「君もそんな感じがしないか?こっちで何かがずっと君を待っていたような」

「うん」とアーサーは言った――だが、それ以上何を言ったらいいかわからなかった。何かが彼の中で変わった。歌の中にある小さな車輪のように。

彼はシスター・ドロシー・グリーンを思い出した。

「僕もきょうの午後は女の子と一緒だったんだ」と彼は言った。そして「だけど、彼女は車を持ってなかった」と笑った。

「じゃ、彼女は何を持ってたんだ?」

今になって、彼は話すことは何もないことに気づいた。ぼんやりとだが、何の権利もないことを感じた。

「わからない」と、彼は救いを求めるような気持でクランチを見た。彼は厳粛なまなざしでアーサーを見た。アーサーはこのとき初めて、いつも彼のことをからかっているクランチが、彼の話に耳を傾けてくれること、彼にこたえてくれること、彼にまじめに接してくれることを、はっきり理解した。それはたぶん、この地域、この地域の住民と同じように大きな謎だった。表面だけではわからない―――というより、誤解しやすい、あるいは誤解を避けられない――真実はほかに、表面よりはるかに深いところにある。ちょうど今、アーサーを見つめるクランチのまなざしの奥の優しさのように。

「僕にはわからない」と彼は繰り返した。「苦しみ」彼はぽつりと言った。「僕は彼女の苦しみを感じるんだ」彼はクランチを見た。「僕の言ってること、わかる?」

「わかると思う」とクランチは重々しく言った。「わかると思うよ」

「僕の言いたいことが、だれにもわかるかな」

「時には」とクランチは言った。「時には、だれにも」

「君にも?」

「おいおい、今夜はばかにまじめじゃないか。そう、僕にもさ」

 彼は煙草を口から離した。

「ママと会うときはいつも」と彼は静かに話した。あまり静かなので、アーサーはどきっとして怖くなった。クランチはベッドの背もたれに寄りかかりながらアーサーを見た。「僕のママは娼婦なんだ。本当だ。ママが何だろうと、僕はママを愛してる」泣いているような、愚痴を言っているような声だった。「ママが何を考えていようと構わない――というのはおかしな話だけど、僕のきょうだいたちも気にしてないと思う。僕たちのママだからな。ママは何も恥じることはないんだ――僕もばかじゃないから、何が起きてるかわかってたさ――男たちが出入りしてたけど、ママは頑張って僕たちを育ててくれた。彼女は僕たちのためにできるだけのことをしてくれた。世界がこんななのはママのせいじゃないんだ」

 アーサーは、息を殺してクランチの声の底の熱い涙を感じとった。

「でも、ママは恥じていた。僕たちが――僕が恥じているだろうと思ってた。僕の気持ちが通じなかったんだ。愛してるのに」

クランチは締めつけられるような声で泣き出した。アーサーは身動きできなかった。

「なんとかして、ママを幸せにしてあげたい。素敵な服を買ってあげたい。たくさん金を稼いでママに渡したい。素晴らしい女性にふさわしい暮らしをしてもらいたい。ママは本当に素晴らしいんだ」

クランチの目から熱い涙がこぼれ、耳に流れた。泣き声を押し殺そうとするクランチのベッドが静かに揺れた――そのせいで、彼は内面で血を流しているに違いなかった。

「クランチ、クランチ」アーサーは小さな声で呼びかけた。クランチの答えはなかった。アーサーの声が聞こえないようだった。アーサーはベッドから離れ、クランチのベッドに行って彼を抱いた。

「クランチ」と、また彼は呼んだ。「お願い、クランチ、泣かないで」

彼は涙に濡れたクランチの顔をぬぐい、キスした。

「お願い、クランチ、僕まで泣きたくなっちゃうよ」

次の瞬間、彼の目から涙がこぼれ落ちた。彼は泣きたくはなかった。クランチを慰め、暗い顔をもとに、もとのクランチに戻ってもらいたくて、震える身体を支えていたのだ。

彼はパジャマの上着を脱いで、クランチの鼻に当てた。

「鼻をかんで、さあ」と彼は言った。

クランチは弱々しく鼻をかんだ。そして、アーサーの手からパジャマを取って、もう一度鼻をかんだ。

彼は目を開いて、アーサーの目をのぞき込むようにした。

「ありがとう」とクランチは言った。二人は互いに見つめ合った。

二人は何かを発見した。互いに相手をどれだけ気遣っているか発見したのだ。何かがアーサーの中で生まれた。恐怖に似たようなものが頭をもたげた。彼の中で何か歌うものがあった。彼は微笑してささやいた。

「だいじょうぶ?」

「もうだいじょうぶ。ありがとう。ごめん」

「何も謝ることなんかないよ」パジャマの上着を手に持って、アーサーは言った。恥ずかしさがこみ上げてきた。

クランチは、初めてアーサーを見るかのように、じっと、厳粛に彼を見つめた。アーサーはクランチの美貌に初めて気がついて、ぼうっとした。彼の内部の深い深いところで戦慄が走った。幸せの前兆なのかどうか、彼の心の中に言葉はなかった――ただ、かつて味わったことのない高揚感があった。

クランチはアーサーの額に厳かにキスした。そして、起き上がってアーサーを抱いた。アーサーもクランチを抱いた。互いに力を込めて抱き合っていると、不思議な歓喜が洪水のように湧き上がってきた。信じられないような光が二人の目の奥で炸裂し、二人の前に新しい広大な宇宙が開けた。今や、二人に必要なものは何もなかった。すべてが充たされることを二人は信じた。二人は同時に目を開き、見つめ合いながら笑った。

クランチはアーサーの唇に軽くキスした。

「これからは、二人一緒だよ。いいね」

「うん」

彼はクランチのような目をした少年を見たことがなかった。

クランチは厳粛に言った。「愛してるよ。わかるね」

「愛してる」とアーサーは言った。「全身全霊で愛してる」

「君と僕だね」

「君と僕」

クランチはアーサーの肩をつかみ、握りこぶしであごに軽く触れた。

「少し眠ったほうがいいよ」

「君も」

「おやすみ」

「おやすみ」