ジェームズ・ボールドウイン「頭のすぐ上に」抄訳(20)DELLぺーパーバックP219~

  クランチとアーサーがニューヨークに戻って、五日か六日たったころ、クランチはジュリアとばったり出会った。土曜の夕方の125番通りだった。彼は七番街を横切って、レノックスと地下鉄のほうに向かっていた。いつもの土曜の夕方と同様、通りは人がいっぱいで、おだやかな騒音につつまれていた。といっても、注意深く聞き耳をたてなければの話だが。彼の両側にはショップやバーが軒を連ね、いたるところから音楽が流れていた。朝から晩までガキどもが走り回って、つかまえて尻を叩きたくなるくらいだ。なにひとつ不自由なさそうなご婦人たちが、わき目もふらずにお目当てのショップに悠然と足を運んでいた。彼女たちの歩き方を見れば、余裕はあっても、このあたりでは買物はしないのは明らかであった。若い男女が連れ立ってゆっくり歩き、立ちどまってショーウインドウをのぞき――互いに肘で突つきあって、指さしては笑い、また歩きはじめる。友だちどうし二、三人の女の子たちはおしゃべりに夢中だ。色とりどりのカジュアルな服装が親しみを感じさせる暖かい夕方だった。

  黄色いセーターにあざやかな赤いスラックスをはいた、すごい美人の女性が箱を持って店から出てきた。あまりのあでやかさに、クランチが歩く速さをゆるめて振り返ったとたんに、別の女性と目が合った――大きな目とやせた顔に見覚えがあった。「すみません」と歩きながら言い、立ちどまって振り向いた。相手の女性も、立ちどまって彼を見つめていた。

それがジュリアだった。いや、ジュリアのようには見えなかった。街灯や店の照明がまぶしく、めまぐるしく人が行き交い、クランチは夢をみているような気がした。ジュリアはまっすぐ、静かにたたずんでいた――ほほえみを浮かべた彼女は、彼の記憶の中のジュリアだった。だが、まだ人違いかもしれなかった。

彼は近寄って、両手を彼女の肩に置いた。

「シスター・ジュリア、元気かい?お嬢さん」

「まあまあってとこよ、クランチ。なんとか生きてるわ」

以前の彼女なら、<主の永遠の力を讃えよ>という言葉が出るのだが、両手を彼女の肩に置いているクランチに向かって、その言葉は出なかった。

彼はとまどった。彼は彼女の肩から手を離して、ポケットに入れた。

「お母さん、亡くなったんだってねえ。心からお悔やみを……」

「そうなの。さみしいわ」

これがジュリアだろうか。ジュリアなら、こう言うだろう。<ママは主に召され、栄光につつまれて神とともにいます。神の御名に祝福がありますように>ジュリアの身に何が起きたか知らないクランチは、ただただ驚くばかりであった。

「ジミー坊やはどうしたの?それから――お父さんは?」

彼女は黒ずくめの服装だったが、以前とは少し違うように見えた。ハイヒールをはいていた。メークもしているではないか――彼は自分の目を疑った。彼女の豊かな黒髪は、彼にはどこがどうとは言えなかったが、目が自然に彼女の額に向くような、あまり見かけない形に整えられていた。彼女の髪からは、奇妙な、乾いた刺激臭が発散し、彼は老衰と死を連想した。

だが、突然、彼女は年齢不詳になった。クランチが見つめる彼女の瞳の奥に、何か読み取りがたいものが生じた。彼女は言った。

「ジミーは危ないことにならないうちに、ニューオリンズのおばあちゃんのところに預けたわ。父は――」彼女は微笑を浮かべ、肩をすくめて言った――「変わりないわ」

「同じところにいるの?」

「そうよ。父と二人で」クランチを見る彼女の目は、以前より大きく暗かった。「うちに来て父と会ってくれるとうれしいわ――あなたと、アーサーとレッドとピーナット。みんなどうしてる?」

クランチは14番通りでアーサーと会う約束をしていた。彼は言った。「みんな元気だよ」

「夏はどうだった?」

「うまくいったよ――<成功>といっていいかな。だけど、今は――」と彼は言いよどんだ。どうしても口にしたくないことがあった。

 「今は何なの?」

 二人は通行の妨げにならないよう、歩道の端に寄っていた。そうして立ち話をしているうちに、クランチはジュリアのいろいろな変化に気づいた。ジュリアはひどくやせていた。うっすらとメークしていた。話すときに唇や声がわずかに震え、首の静脈が脈打った。彼女は不幸のどん底にいるようだつた。それは彼女が発する臭いと同様、隠すことはできなかった。

 彼は言った。「召集がきそうなんだ。みんなもうすぐ朝鮮に行かされそうなんだ――アーサー以外はね。まだ若いから。神様のおかげで」

 彼女は「神様のおかげで」に力が入っているように聞こえ、同情のこもったまなざしで彼を見た。彼のこの言葉には真情が込められていた。彼は教会で告解を行ったような安らぎを感じたのだった。

 だが、ジュリアの口から神という言葉が出ることはなかった。彼女は言った。「アーサーに会いたいわ。彼はシスター・ベイシーのお葬式で歌うのは気がすすまなかったようなのね」そして、息を殺し、内心の乱れを隠すように弱々しく言った。「みんな忙しいでしょうけど」――彼女は笑った――「父がみんなで一杯やるのが好きだから」

 彼女が笑ったとき、まるで告解を行ったような変化が生じた。

 クランチは妙に心を動かされるものを感じて笑った。

 「都合つけて会いに行くよ。お父さんによろしく」

 「ありがとう、クランチ」と彼女は言った。「またね」

 <主を讃えよ>という言葉を期待したが、彼女は笑って手を振り、背を向けて去っていった。彼は人込みを不器用にぬって歩く彼女の後ろ姿を見つめていた。人々は振り返って彼女を見た――背の高い、やせた、気迫のこもった女性、黒ずくめの服装で、精神病院から抜け出したような、あるいはこれから精神病院へ行くような女性を。

 クランチは彼女を見つめ、彼女を見ている人々を見つめた。彼女を呼び戻そうと思った。だが、何のために。彼は向きを変えて角を曲がり、急ぎ足で地下鉄の階段をおりていった。