ジェームズ・ボールドウイン「頭のすぐ上に」抄訳(29)DELLぺーパーバックP336~
ジェームズ・ボールドウイン「頭のすぐ上に」抄訳(29)DELLぺーパーバックP336~
ジュリアは東18番通りのビルの最上階のロフトに住んでいた。派手な装飾の施された灰色の金属製の手すりがある褐色砂岩の階段を三段上がると、玄関に観音開きのドアがあり、郵便受けとベルが左右についていて、インタホンはなかったのを覚えている。
ジュリア・ミラー/ジェームズ・ミラーと書かれたベルを押すと、ブザー音とともに中のドアが開いたので、私は階段を上がっていった。
上のほうから「ホール?」という声が聞こえた。
「そうだよ。息が切れる」
上のほうで笑い声が聞こえた。「そこで心臓発作を起こさないでね。ゆっくり上がってきて、おじさん!」
「言ったな。そっちへ着いたら仕返ししてやるからな」
「しゃべらないほうがいいわよ。酸素がなくなるから。ゆっくりね。ここまで来たらカウチに倒れ込みそうだから鎮静剤を用意しておくわ」
彼女はまた笑った。私は上がり続けた。土曜の夕方、6時半のことで、上がっていく途中の部屋から、マイルス・デイヴィスのレコードが聞こえ、かすかなマリファナの臭いがした。終わりのほうの階段は二段ずつ上がった。部屋のドアは開いていて、彼女は部屋の中央に立っていた。天井の高い大きな部屋で、彼女の後ろに大きな窓が二つあった。ワインの広告の写真ではショートカットの切り下げだった髪は、ブラシか櫛で後ろに上げられて、形のよいおでこがあらわになっていた。灰色のフロックの腰を赤いベルトで締め、長い脚にハイヒールをはいていた。
「登山家みたいじゃないの」
彼女は身動きせず、私を見て笑った。
この瞬間を言葉で表すことができない。彼女は笑い、私は入口のドアのところで笑った。来る途中で突然思いついて、彼女が好きそうな花束を買って持っていたのだが、何も言えなかった。黄色い花だったという記憶しかない。
その花を黙って見つめていた。
すると、彼女がいたずらっぽい笑いを浮かべながら近づいてきた。
彼女に会えてうれしかった――胸がいっぱいで何も言えなかったのである。たぶん、二度と会えないと思っていたせいだろう。
「ジュリア、会えてうれしいよ」
彼女は花束を取り、私の腰に手を回した。そして私たちはキスをした――そして、身体を離したときに、これが二人の人生で初めてのキスであることを、言葉にならぬ感動とともに互いに理解したのだった。
「私もうれしいわ。元気だった?」
私たちの感動は彼女の目に現れ、私の目に現れていた。
「元気だよ――ジュリア、ワインの広告、君だったんだね。素晴らしく魅力的だったけれど、いつハリウッドから声がかかったの?」
「魅力的になったと思ってくれるの?」と、彼女は笑いながらテーブルに花を置いた。「花をいけるのに何か探してくるから、すわって待っててね。何か飲み物もつくるわ」
私はソファにすわった。彼女は姿を消した。私は周囲を見回した。天井の高い大きな部屋で、家具は少ないが、とても快適そうだった。リビングルーム兼ダイニングルームで、大きな形のよいテーブルとソファと二つの安楽椅子があった。こじんまりしたバーの隣りにグランドピアノがあり、テレビセット、レコードプレーヤーがあり、その隣の腰かけにレコードが積み重ねてあった。屋根上の二つの窓は開いていて、テーブルと椅子があった。キッチンにはガス台、流し、小型の冷蔵庫、戸棚、キッチンテーブル、それと椅子が二つ窓のそばにあった。ベッドルームは二つあり、ドアが開いていたので、内部が見えた。また、入口近くの部屋の隅に浴室があった。
ジュリアが花瓶に花を入れて持ってきて、テーブルの上に置いた。
「いいところだね」と私は言った。「君も素敵だ」
「私は私だけど、どうしてかしらねえ」と彼女は言った。「でも、そう思ってくれるのはうれしいわ――あなたに会えると思わなかった。久しぶりねえ」
「本当に久しぶり。いつニューヨークに戻ってきたの?」
「戻ったばかりなのよ――十日くらい前かな。ここへ移ったのは二、三日前。友だちに頼んで又貸ししてもらったのね」――彼女は笑った――「きれいによ。ホール、何を飲む?立派になったわねえ――若きエリートさん!順調そうで、将来が楽しみね」
「そう、ありがたいね。運が向いてきたかな。下積みで終わるなんて真っ平だからね」
「わかるわ。ねえ、何を飲む?」
「よかったら、スコッチのオンザロックを」
「じゃ、つくるわね」
「手伝うよ」
私は冷蔵庫から氷を出して、二人でボールに入れた。彼女は私のためにスコッチのオンザロックをつくってくれて、自分はジントニックをつくった。それから、二人でソファにすわった。
「何から手をつけたらいいのか、わからないのよ」と彼女は言った。私は彼女に煙草を差し出し、火をつけた。
「あなたのご両親と弟さんを知ってるし、あなたのまわりの人もだいたい知ってるわ。もちろん」と、彼女は何か気がかりなことがあるような笑いを浮かべた。「私たちはそんなに会っているわけじゃない。私はまだ子どもだったし、あなたは私のことを嫌ってた」
彼女の言うとおりだったが、今はそのことで気まずい雰囲気にしたくなかった。
「あのころはクソ生意気なガキだったな。君のせいじゃないし、今は好きだよ。とにかく――よくわからないけど、君に会わずにいられなかったんだ」
彼女はお互いによく知らないと何度も言ったが、それは確かだった。しかし、彼女は私の人生の一部であり、アーサーの人生の一部であることも確かだった。私は落ち着かない気分になってきた。彼女の身に起きたことを、私がどこまで知っていると思っているのだろうか。たとえば、父親とのことやクランチとの間にできた子のことは、彼女のほうから話すまでは、私から話すことはできない。
落ち着かない気分であったが、ジュリアに会えたことがうれしかった。
それで私は、ゴスペルにあるように、「神の約束を信じて」一歩踏み出すことができた。
「私もあなたに会えてうれしいわ」と彼女は言った。「前にはお高くとまっていたかもしれないけれど、今は少しおとなになったわ」
「ジュリア――説教師をやめてからどのくらいになるの?」
「七年になるかな。七年とちょっとよ」
彼女はウイスキーをすすって私を見た。「信じられる?」
「信じがたいな。ニューオリンズでは何をしてたの?」
「ホール――これだけは言えるわ。何とか生き延びたわ――不思議なくらいよ」彼女は煙草をもみ消した。「ジミーがいたから。やっと仲直りして、私を支えてくれたわ――素敵よ。立派な男になったわ」
「彼もここで一緒に住んでるの?郵便受けに名前があったけど」
「そうよ。大きな顔して出入りしてるでしょうよ」
彼女はソファから立ち上がってレコードプレーヤーのほうに歩いて行った。彼女は私を見た。「私がなぜ南部に行ったか知ってるでしょう?」
「少しはね。アーサーが手紙をくれた」
「あなたのママは何も言ってない?」
「家に帰ったときには。手紙にも書いてなかったし」
「彼女は知らないと思うわ」
彼女はソファに戻ってきて腰を下ろし、ジントニックのグラスを持って、じっとそれを見つめた。「私もよくわからないのよ。弟とまた一緒に暮らせるなんて」――彼女はグラスを見つめたまま口をつぐんだ――「ずいぶん長かったわ。みじめだった。立ち直ったと思うとぶちのめされるんだから」彼女は笑いを浮かべながら私を見た。「でも、帰ってこれたわ」