短篇小説 ユウキャンネバーキャプチャリットゲイン
「わっ、すっご~い、これ」という声がうしろのほうで聞えた。振り返ると、若い女性が小さな陶芸の作品群に見入っていた。 粘土を適度な硬さに溶いて、スポイトのようなものでたらしながら積み重ね、焼いたもののようだ。私もついさっきそれを見て、作者の精神が凝縮したような緻密さに驚嘆したばかりだった。
近づいていくと、
「生命現象……」
という言葉が彼女の口からもれるのが聞こえた。
「気に入りましたか。それは、私の甥の作品でね」と私は近づいて話しかけた。
「彼も喜ぶでしょう。あとで、一つもらってあげましょうか」
「えっ、ほんとうですか」
口元に特徴のある子だった。どちらかというと薄い唇で、輪郭がはっきりしている。笑うと左の端がつり上がったようになって、それが妙にかわいらしかった。
「彼とは小さいときから仲がよくてね。まだそんなに大芸術家というわけでもないから、頼めば、一つぐらい分けてくれるでしょう」
「わあ~、本当だったらうれしいな」
「だいじょうぶですよ、近いうちに……ところで、これから全部見るんですか」
「いえ、もう全部見たんです。帰ろうと思ったら、この作品に気がついたんです」
「そうですか。私も帰るところです。一緒に出ましょう」
「はい」
と彼女は屈託なく答えて、私の左に並んで歩いた。
私たちは今、六本木ヒルズ五十三階の森美術館にいる。私は速記協会の研修会でひさしぶりに東京へ出たので、甥が案内状をくれた「未来への躍動展」を観に来たのである。新進アーティスト五十人ばかりの絵画、写真、映像、彫刻、あるいはジャンル分けできないようなアート、パフォーマンスもあったが、どんな形でも、若い芸術家の意欲的な表現を見るのは気持のいいものだった。
階段をおりると、丸いビルの内部を一周する展望台になっている。
「ちょっと見ていきましょうよ。もう見ましたか」
「いいえ、はい」
五十二階からの俯瞰だから、夜景がすばらしい。高速道路を走る自動車のテールランプが美しい。太く帯状に連なって、溶岩の流れのようでもあり、血液の流れのようにも見える。芥川龍之介は「ある阿呆の一生」で、電線の紫色の火花を見て「凄まじい空中の火花だけは命と取り換えてもつかまえたかった」と書いたが、私も眼下の赤い輝きを心の中にもちたいと思った。
展望台をひとまわりして、下りのエレベーターに乗ったとき、二人きりになったので、私は彼女が肩からさげている楽器のケースの中身について話しかけた。
「それはアルトサックスですね」
「あら、わかります。練習しているんです」
「いいですねえ、エリック・ドルフィって知ってる」
「ええ、大好きです」
共通の話題ができたので、私は急に元気づいた。
「最近、CDを何か買いましたか」
「ええ、アザーアスぺクトというのを買いました」
「ああ、女の人がテイ・タ・テ……と歌っているやつね。あの女の人は解説を読むとアンノウン=不詳と書いてあるけれど、エリック・ドルフィには婚約者がいたので、その人じゃないかな」
「へえ〜、エリック・ドルフィに婚約者がいたんですか」
「『エリック・ドルフィ』というビデオがあるんですよね。それにでてきます」
「へえ〜、見てみたいなあ……あの、お名前……」
「私ですか、小林です。ごく平凡な、小さい林で……あなたは」
「関原です、関が原の……。小林さんはエリック・ドルフィのCDはたくさんお持ちですか」
「たくさんといっても、若くして亡くなったからそんなにはないけれど、日本で手にはいるCDは全部あると思います」
ビルの外に出て地下鉄の駅のほうに歩いていくと、感じのいい中華料理の店があった。研修会で音声認識ソフトについて議論が沸騰し、予定時間を大幅に過ぎてしまったので、何となく気がせいて、何も食べずに電車に飛び乗ったことを思い出した。
「おなかがすいているのですが、何か食べていきませんか。エリック・ドルフィの話をしたいし、おごりますよ」
「わあ~、本当ですか、私も何か食べて帰ろうと思っていたところなんです」
素直に喜んでくれたので、私はほっとした。
「中華料理でいいですか。この店、感じがいいから入ってみましょう」
返事を待たずに店のほうに足が向いてしまったが、彼女は、
「はい」
と、元気のいい返事で、うれしそうに私のあとについてきた。
さすが六本木まで出るといい店がある。壁に大きな水墨画がかかっている。渓谷の流れに小舟を浮かべて釣りをしている人が描かれている。なかなかいい。
テーブルも椅子もしっかりしている。
「さて、何を食べますか、何でもいいですよ」
店に入るときにちらりとショー・ウインドウを見たら、北京ダックがあったので、私はそれに決めていた。彼女は、メニューをめくりながら、なかなか決まらない。
「う~ん」
と、うなったりしているのがかわいらしくみえる。店に入るときの力の入った返事から、中華料理が好きなのかなと思ったが、あまりこういう店に入ったことがないのかもしれなかった。
「じゃあ、私は春巻にします」
やっと決まったのがごくありきたりのものなのがおかしくて、私は笑いながらそれを注文し、紹興酒を頼んだ。
彼女はメニューを置きながら、「さて」というように私のほうに向き直って、
「エリック・ドルフィのCDは、何枚ぐらいあるんでしょう」
と言った。目の下にうっすらとそばかすがあるのに気づき、日本人にはめずらしいと思った。
「大きなCDショップだと、エリック・ドルフィのは五、六枚あるでしょう。たまに十枚くらい置いてあるところもありますね」
「若くして亡くなったから、そのくらいなんでしょうね」
「エリック・ドルフィがリーダーで録音したのはそんなものだけど、ほかのバンドで録音したのはもっとありますよ。一番最初がチコ・ハミルトンですね」
「そういうのを探せばいいんですね。今おっしゃったのはだれでしたっけ」
彼女はバッグから手帳とボールペンを取り出した。
「チコ・ハミルトンです」
私の言葉を書き取っている。こんなじじいの話のメモをとるとは、いまどきめずらしい子もいるものだと感激した。私の目をみながら、次の言葉をまっている。
「コルトレーンと一緒にやったのが何枚かあるのは知ってるでしょう」
「あ~、コルトレーンはだいぶ集めたんですが、気がつきませんでした。どんなのにエリック・ドルフィは参加しているんですか」
「ライブ・アット・ビレッジバンガードがいいですね」
「それって、私、持っていたかなあ」
「最初の『スピリチュアル』という曲でエリック・ドルフィがバスクラリネットを吹いているので、一度聞いたら忘れないですよ。当時は珍しい楽器でした」
「すると、持っていないのかなあ。ライブ・アット・ビレッジバンガードか」
メモをとりながらつぶやいている。
酒が来た。メニューにあったボトル(小)というのを注文したのだが、見たことのないラベルの、ずんぐりした丸い土器のようなボトルだ。
「どうですか」
とすすめると、
「いえ、私は……」
と軽く首を横に振る。
「お酒は飲まないの」
「いえ、きょうは」
知り合ったばかりで、どこのだれだかわからない男性とは、というわけか。それはそうだね、と腹の中で同意しながら、
「それじゃ、また今度」
と、今度に期待する気持を伝える。
まるで酒をたしなまない女性というのはつまらないが、初対面でしっかり飲む女性というのも、手ごわいなあと思って敬遠したくなる。
「それから、『オレ』というのがありますよ」
「あ、それなら私も持っています。思い出しました。最初のLРレコードにはエリック・ドルフィの名前がなかったというやつでしょう」
「そう、レコード会社との契約の関係で別の名前にしたというやつね」
「ラテン音楽風のリズム感が何ともいえないですね」
「それと、ベースの弓弾きがいいですね。ベースが二人いるんだけど、あの弓弾きはレジー・ワークマンだかアート・デービスだか、いまだにわからない」
春巻きと北京ダックが来た。
チーパオを着た従業員が、
「おつくりしますか」と言うので、うなづくと、琥珀色に輝く皮を手際よくボービンに巻いてくれた。
一礼して立ち去っていく女性の後ろ姿を見て、チーパオは中国五千年の歴史の中で、女性が美しく見えるよう考え抜かれた末に完成したものだと思う。
私が初めてチーパオの美しさにひかれたのは、映画「慕情」を観たときであった。中国人とイギリス人の混血である女性医師を演じたジェニファー・ジョーンズのチーパオ姿は、はちきれんばかりのエロティシズムに溢れていた。マカオでの一場面が強く印象に残っている。恋人役のウイリアム・ホールデンが仕事で遅れて到着し、ホテルの部屋のドアをノックすると、待ちかねた彼女は弾かれたように立ち上がってドアを開けに行く。小走りにドアに走っていくチーパオ姿のハン・スーインの可愛さが忘れられない。つい原作者の名前が出てしまったが、この映画は実在の女性医師の回想を映画化したものなのだ。
あの可愛さのためには命を賭けてもいいな……
そんなことを考えていると、
「小林さんは楽器はやらないんですか」
と尋ねられた。
「学生時代にドラムをやっていましてね、天狗になってプロのドラマーになろうと思ったけれど、だめでした。子どもができると生活に追われて、最後はキャバレー回りですよ。楽器をやっている若い人を見ると応援したくなります。関原さんはがんばってください」
「ええ、がんばります、もっと上手になったら、セッションしていただけませんか」
「いやいや、私なんか、もうだめですよ」
笑いとばしたつもりだったが、妙に沈黙が流れてしまった。知り合ったばかりの若い女性と話が続かなくても不思議はない。私はひさしぶりの紹興酒を味わいながら、きょうの研修会の司会者の額にエリック・ドルフィと同じこぶがあったことを思い出していた。音声認識ソフトの普及は死活問題であると質問や意見が殺到して、司会者はそれをさばくのに困惑していた。確かに、私を含めて速記者は職を失うことになるだろうが、いつの時代にも技術の進歩とはそういうものだろうと思う。
「このふかひれ春巻き、すごくおいしいです」
「そう、それはよかった」
故郷の港町の魚臭い空気が漂ってくるようだ。私の家の近所に《鮫干し場》があった。広場の高い櫓に鮫の尾ひれがいっぱいに干してあった。ひれが干してないときは、よく友達と櫓にのぼって遊んだものだ。中華料理に使われることは聞いていたが、そんなに高級なものだとは思わなかった。乾燥した三角形の尾ひれから、相当手の込んだ工程を経て食材となるらしい。懇親会や忘年会でふかひれスープが出て、感激しながら食べている人がいても、ごく身近に原材料があったせいか、どうも食べる気がしなかった。
「小林さんの、エリック・ドルフィこの一枚といったら、何になりますか」
「それはやっぱり『ラストデイト』ですね。私が最初に買ったエリック・ドルフィのLPです」
「ああ、私も持っていますけれど、エリック・ドルフィのそれまでの演奏と違う感じがしますね」
「そう、私はあのLPを聴いてエリック・ドルフィが好きになって、それからさかのぼって彼のレコードを聴いたんだけど、確かに違う感じがしますね。共演者のせいだろうか。それともヨーロッパの風土そのものがあの演奏を生んだんだろうか」
「最後にエリック・ドルフィの声が入っていますね」
「ユーキャンネバーキャプチャリットゲイン、音楽は終わると空中に消えて、二度ととらえることはできない――と、禅の公案みたいなことを言っていますね。「ラストデート」はオランダの録音だけど、彼はそのあとパリにもどって、そのときの録音がCDになっています。それに入っている「スプリングタイム」というのがすごい演奏です。よほど具合が悪かったのかもしれないですね。死期を悟ったというか、「生きたい」という悲痛な叫びが聞えるようです」
彼女は、こみあげてくるものを抑えているように、眉をひそめ、口に手をあてて私の話を聞いていた。
「じゃ、きょうはこのくらいで、さっきのあの作品が手に入ったら連絡しますよ。電話番号教えてくれる」
「わあ~うれしいな」
無邪気な笑顔で、彼女はバッグから手帳を出し、携帯の番号を書いてくれた。
「おすまいはどこなの」
「池袋です。豊島区雑司が谷……」
「へえ~いいねえ、雑司が谷という地名はムードあるね。僕は静岡の出身だけど、なぜか雑司が谷という地名は子どものころから知っていてね。東京の地名の中では、一番好きだな」
興に乗って紹興酒を二本飲んでしまったので、勘定が予定よりオーバーしてしまった。しかし、ひとり暮らしのじじいにとって、若い女性とのディナーは金にはかえられないぜいたくなひとときであった。おとずれる人もない公団アパートの一室で、ふだんは人と話すこともない。たまに郵便受けをのぞくと、スーパーの宣伝チラシの中に、速記協会の案内が埋もれている。ひとり娘の携帯の電話番号は知っているが、これも二、三年前のものなので、何かあったときつながるかどうかわからない。娘の母親、つまり私にとって別れた妻は――さあ、生きているか死んでいるのか。
外に出ると雨だった。強い雨ではないが、晩秋の雨は冷たい。最近はちょっとしたことですぐ体調をくずすので、風邪をひかなければいいが。
「じゃ、私は久しぶりだから、買い物でもして帰ります」
「すみません、ごちそうさまでした」
彼女は、ていねいに頭を下げて、駅のほうに歩いていった。
「そうそう、ステージのエリック・ドルフィを見たかったらね、『真夏の夜のジャズ』という映画があるから見てください。チコ・ハミルトンのバンドでフルートを吹いている若きエリック・ドルフィが見られます」
「『真夏の夜のジャズ』ですね。ぜったい見ま~す」
と言って、彼女は手をふった。
生きることの悲しみを知らない健康な笑顔だった
さて、あの陶芸の作者の名前は何だったか。もう一度見てこなくては。甥だと言ったからには、名前ぐらい知っておかないといけない。「譲ってもらえなかった」と電話したら、彼女は納得してくれるだろうか。もう一度会ってくれるだろうか。
このとき、宇宙のかなたから、エリック・ドルフィのあの声が響いた。
“ You can never capture it again.”