梶井基次郎

病人の妄想といってしまえばそれまでだが、病める者の特異な感性が、「自己の中の他者」という二十世紀最大のテーマと交錯したときに、梶井基次郎の文学は発生した。


  魚屋が咳いている。可哀想だなあと思う。ついでに、私の咳がやはりこん

 な風に聞こえるのだろうかと、私の分として聴いてみる。

                                                                         (「交尾」)

 

  ある夜のこと、私は私の前を私と同じように提灯なしであるいてゆく一人

 の男があるのに気がついた。それは突然その家の前の明るみのなかへ姿を現

 はしたのだった。男は明るみを背にしてだんだん闇のなかへはいって行って

 しまった。私はそれを一種異様な感動を持って眺めてゐた。それは、あらは

 に云って見れば、「自分も暫らくすればあの男のやうに闇のなかへ消えてゆく

 のだ。誰かがここに立って見てゐればやはりあんな風に消えてゆくのであら

 う」といふ感動なのであったが、消えてゆく男の姿はそんなにも感情的であ

 った。

                                                                           (「闇の絵巻」)

 

  そして私が自分の鬱屈した部屋から逃げだしてわれとわが身を責め虐んで

 ゐた間に、彼等はほんたうに寒氣と飢ゑで死んでしまったのである。私はそ

 のことにしばらく憂鬱を感じた。それは私が彼等の死を傷んだためではなく、

 私にもなにか私を生かしそしていつか私を殺してしまふきまぐれな條件があ

 るやうな氣がしたからであった。私は其奴の幅廣い背を見たやうに思った。

 それは新しいそして私の自尊心を傷つける空想だった。そして私はその空想

 からますます陰鬱を加へてゆく私の生活を感じたのである。

                               (「冬の蝿」)

 

  「あれは俺の空想が立たせた人影だ。俺と同じ欲望で崖の上へ立つやうに

 なった俺の二重人格だ。俺がかうして俺の二重人格を俺の好んで立つ場所に

 眺めてゐるといふ空想はなんといふ暗い魅惑だらう。俺の欲望はとうとう俺

 から分離した。あとはこの部屋に戦慄と恍惚があるばかりだ」

                         (「ある崖上の感情」)

 

  影の中に生き物らしい氣配があらはれて来た。何を思ってゐるのか確かに

 何かを思ってゐる――影だと思ってゐたものは、それは、生なましい自分で

 あった!

  自分が歩いてゆく! そしてこちらの自分は月のやうな位置からその自分

 を眺めてゐる。地面はなにか玻璃を張ったやうな透明で、自分は軽い眩暈を

 感じる。

 「あれは何處へ歩いてゆくのだらう」と漠とした不安が自分に起りはじめた。  

                                                                  (「泥濘」)

                             [全集掲載順]

 

 梶井基次郎の作品の中では、こんなにも容易に自己が漂出して他者と重なる。

「Kの昇天」は梶井のこの特質が凝縮した作品といえる。

 代表作「檸檬」は実に魅力的な作品である。寄る辺なき青春の心に思いを寄せるのもいいだろう。みすぼらしい裏通りの旅情に共感するのもいいだろう。びいどろの味わいに似た郷愁を自分の中に発見するのもいいだろう。「それにしても心という奴は何といふ不思議な奴だらう」から心的現象の探求におもむくのもいいだろう。昭和の初めの寺町通りの雰囲気にひたるのもいいだろう。鉛筆一本の贅沢をまねてみるのもいいだろう。

 だが、丸善の画集を手当たりしだいに積み上げて奇怪な幻想的な城を作らずにはいられない「自己の中の他者」というのが、私の梶井基次郎の読み方なのだ。