追悼 石渡幹夫【Ⅲ】コーネル・ウールリッチ

 コーネル・ウールリッチの名は知っていた。ただし、一冊も本を読んでいないので、推理小説ファンの兄が口にしていたのを聞いて覚えたのだと思う。

 一昨年の5月ごろだったと思うが、朝日新聞の日曜版に「コーネル・ウールリッチの生涯」、上・下合わせて945ページという本の書評が載っていた。これが大変興味深いものであった。江戸川乱歩がウールリッチの「幻の女」に惚れ込んでいたとか、謎解きとしては欠点だらけだが、ぞくぞくするほど魅惑的な文体であるとか、運命の前ではすべての人間がひとしく挫折するとか、ペシミズム哲学の暗闇とか、ウールリッチの作品を読んでみたくなるような賛辞が連ねてあった(評者は学習院大学、フランス文学の中条省平氏)。中でも私がひかれたのは「享年64の葬儀には5人しか参列者がなかった」というくだりである。ちょうどその前年がJ.P.サルトルの生誕100年で、いろいろな催しがあり、多くの研究書が出版された。1980年4月19日の葬儀には、4万人の人が集まったと回顧する記事が新聞に載ったりした。もちろん私は5人と4万人を比較しようとしているわけではない。だが、おそらく読者の数から言ったらサルトルより多いだろうに、コーネル・ウールリッチという人は推理小説を書くほかに何をやったのかと、だれしもいぶかしく思うのではないだろうか。

 お盆休みに三崎に帰ったときにその話をすると、兄は「読みたいなあ」と言っていた。読んでもらって感想を聞きたかったが、上下各2940円では、そう簡単に約束するわけにはいかなかった。そのころ彼は、交通事故後の血液検査で赤血球が異常に多いのが発見されたということで、だいぶ憔悴していた。私たちはしばらくコーネル・ウールリッチの話をした。といっても、上に書いたように私は一冊も読んでいないのだから、私が兄にいろいろ尋ねることが多かった。彼はこんな話をした。

 

 代表作の「黒衣の花嫁」というのは、ある貧しい女性が電車事故に遭い、隣りの意識不明の女性の指から婚約指輪を抜き取って自分の指にはめる。その女性になりすまして大富豪と結婚するが、にせものであることがばれて脅迫状を受け取る。脅迫状にあった場所に金を届けに行くと、男が死んでいる。その犯人は、大富豪の母親、つまり彼女の義理の母親だった。 

 

 私はそれを聞いて「へえ~、おもしろいねえ」と言ったけれど、これがとんでもないストーリーであることがすぐわかった。というのは、そんな話をした数カ月後にテレビでジャンヌ・モロー主演の「黒衣の花嫁」を放映したからだ。

 結婚式を終えたばかりの新郎新婦が教会の外へ出てくると、突然新郎が銃弾を受けて死んでしまう。この銃弾は、近くのビルの一室から暴発により放たれたもので、特に新郎を狙撃したわけではなかった。その部屋には5人の男がいた。花嫁はこの5人を探し出して復讐するというストーリーだ。兄が私に話したストーリーとは似ているところさえない。

 彼は、私に何を話したのだろうか。インターネットで埼玉県立久喜図書館(科学・芸術分野専門)を調べてみると、「幻の女」はないようだが、コーネル・ウールリッチ傑作選(全5巻)があったので借りてきた。第1巻の「耳飾り」というのが兄の話と似ている。元恋人に脅迫された人妻が金を届けに行くと、その男はすでに殺されていた。犯人は彼女の夫であるというストーリーだ。似ているといっても、金を届けに行ったら死体があった。犯人は意外な身近な人物というところだけだが、同じプロットの作品がほかにあるとも思えないので、兄は私の質問に対して、まずこの「耳飾り」を記憶の底から掘り起こしたのだろう。

 電車事故に遭って、隣りの女性から指輪を抜き取る話。夫の母親つまりしゅうとめが嫁の危機を救う話は、コーネル・ウールリッチのどの作品なのだろう。これも別々の作品をつなぎあわせたのだろうか。

 いや、待てよ。こうなると、コーネル・ウールリッチの作品にあるとは限らない。指輪を抜き取る話はともかく、しゅうとめが嫁を救うという話は、嫁としゅうとめの確執に悩んだ兄がつくりあげた救済の物語かもしれない。私たちの母と祖母との不和も、すさまじいものであった。

 コーネル・ウールリッチの作品を読み進めていくうちに謎が解けるかもしれないが、それまでは、推理小説ファンの兄が死の1年前に書き上げた唯一の「作品」としておこう。  

                                 石渡正人